第299話 相談
弓削は軽い気持ちで言ったひとことだったのだろうが、僕には彼の言葉が色々な意味を持っているように思えてならなかった。
――人に伝えるとは? 表現するとは?――
――そもそも俺は何を伝えたいんだろう?――
――俺は耳障りの良い音だけを弾いていたのか?――
――もしかして自己満足の世界に俺は生きていたのか?――
――いや、一音一音、俺は大事に弾いてきた。俺の感じた世界を伝えようと思っていた。それが自己満足なのか?――
――そもそも俺はどんな音を鳴らしたいんだ?――
そんな事を取りとめもなく、授業中もぼぉっと考えていた。
幸いにも今日の部活は一人でピアノを練習する予定だったので、早めに切り上げて安藤さんの店に向かった。もしかしたらオヤジがいるかもしれないと思っていた。
こういう事はオヤジに相談するのが一番だ。
早い時はこんな時間でもオヤジはこの店にいる事がある。
店の中に入るとオヤジはヒマそうに一人でカウンターでビールを飲んでいた。
どうやらオヤジも今さっき来たところのようだった。
僕はオヤジの隣に座ると安藤さんに
「ホット下さい」
と注文した。
オヤジは僕の顔を横目で一瞥すると
「どないしたんや? 学校帰りか?」
と声を掛けて来た。
「うん」
と僕が返事をすると
「なんか切羽詰まってるような顔してんな。我慢せんと、早よトイレ行っとけ」
と訳の分からん心配をした。
「別にそんなん行きとないわ」
「なんや、トイレとちゃうんか」
とオヤジは気の抜けたような声で応えた。
「なぁ、父さん。父さんはコンサートとか人前でピアノを弾く時って、どんなことを考えとったん?」
「なんや? 急に?」
オヤジは軽く首をかしげて聞き返してきた。あまりにも唐突過ぎたか? と思ったがもう遅い。
「うん。上手く弾きたいとかミスせへんように弾きたいとかそんな当たり前な事やなくて」
僕はそのまま質問を続けた。
「……お前はいつもどう思って弾いているんや?」
とオヤジは僕の質問には答えずに逆に質問で返してきた。オヤジには僕の質問の意図が伝わっていなかったようだ。
「俺?……俺はその時に感じた音、聞こえた音、今ここにあるべき音を再現したいって思ってる」
「ふむ。それは間違いではないけど、それだけではアカンと思っとる訳やな……父さんにそう言う事を聞くという事は?」
「うん。今日、学校の同級生に『じっくりとお前のソロリサイタルで聞きたい』みたいな事を言われてんけど、俺のピアノを聞いた人は本当はどう思っているんやろうか? って疑問が湧いてん」
僕は言葉を続けた。
「そいつは『部活の演奏会では無くて、もっとピアノソロを聞いてみたいと思っている奴もおる』とか言ってくれてんけど、それを聞いて初めて『人は俺にどんな音を求めているんだろう?』って考えてしもて、訳が分からんようになってもうてん……」
と僕は正直に今思っている事をオヤジに言った。こんな事を聞いて答えられるのはオヤジしかいない。
ストレートに聞くのはちょっと癪だが、それよりもこのモヤモヤとした感情をさっさと何とかしたいという気持ちの方が勝った。
オヤジは黙って考えていたが、
「それ、単なる考え過ぎとちゃうか?」
あっけらかんとひとこと言った。
「え?」
「普通はさあ、人がどう思うているかなんて分かる訳ないやろ? 人相見でもあるまいし……ちゃうか?」
とオヤジは少し呆れたような顔をして言った。
もしかして僕は相当くだらない質問をオヤジにしたのかもしれない。
「うん」
と僕は頷いた。オヤジに質問した事を少し後悔し始めていた。
「例えばやなぁ……今、父さんがお前の事どう思っとるか分かるか?」
とオヤジは聞いてきた。明らかに呆れかえっている。
「う~ん。『こいつあほちゃうか』とか?……」
「え! なんで分かんねん。お前はエスパーか!」
とオヤジは驚いた顔でのけ反った。
「なあ、父さん、真面目に俺の話を聞いてる?」
それ位の事なら僕にだって言える。ついオヤジの言葉を真に受けてしまった自分を恨んだ。同時にさっきとは違う意味でオヤジに相談した事を後悔した。
「いや、ちょっと場を和ませようと思ってんけど、どう?」
と言いながらオヤジは愉快そうに笑った。
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