第300話 今しか出せない音
「全然、和んでへんし、そんなん誰も期待してへん」
和むどころか空気が重くなったような気さえする。怒りさえこみ上げてきそうだった。
「そうか……」
と落胆したようにオヤジは肩を落とした。
一体どこまで本気なのか冗談なのか分からんオヤジだが、このやり取りで少しだけ気分が軽くなったような気がするから不思議だ。
「父さんはなぁ……父さんがお前位の時は『今ここで出しうる最高の音を出す』ことだけを考えてたわ。自分の持っている全てをここでさらけ出すことができた時はそれで満足やったなぁ。だから全部出し切ったと思えた時は最高に幸せやったけどな」
とどうしようもないギャグをかました後とは思えない、まともな事を言う。
わがオヤジながら僕は未だにこの性格がつかみ切れていない。
「そっかぁ……」
とはいうもののオヤジのこの話には共感できたし、オヤジらしい台詞だと思った。
「お前にはこの話は分かると思うけどなぁ」
「うん。分かるような気がする」
そう言いながら僕は昨年のコンクールのファイナルの演奏を思い出していた。
今ここがコンクール会場である事も忘れ、ただただ今出したい音を、音の粒を生み出す事だけを考えていたあの瞬間。そして最後はそれさえも忘れてしまって、自分ではない誰かに導かれて弾いたような気さえする不思議な感覚だけが残った弾き終わった後の感覚。
その瞬間は、言葉では言い尽くせないほどの余韻を感じた。あの瞬間をもう一度味わうために僕はピアノを弾いている、と言っても過言ではないぐらいの快感だった。
「観客の反応なんて、弾き終わるまで分かるかいな。そんなもん気にしてピアノ弾いとったら、弾けるもんも弾けんようになってまうわ。所詮ピアニストはエゴイストなんや」
そう言うとオヤジはグラスに口をつけて、ビールを一口飲んだ。
――そっかぁ、オヤジも俺と同じ事を感じていたんやなぁ――
と思うと僕は少し嬉しかった。
オヤジはコースターにそっとグラスを置くと、そのまま軽く握ったまま
「自分の音に自信と責任を持てんようになったら……それはピアニストやない」
と呟くように言った。
その声はいつものオヤジの声ではなく重く、僕にではなく自分に言い聞かせているような声だった。
僕が黙ってオヤジを見ていると、オヤジは僕の視線にハッと気が付いたように
「考える事はええけど、考え過ぎるとろくなことにはならんな。前にも言うたかもしれんけど、鍵盤に指をおいたら余計な事は考えんでええ。後はピアノが教えてくれる」
と言った。
そうだった。去年安藤さんの店でオヤジから同じような事を言われたのを思い出した。
あまりにも頭でっかちになっていた僕に『表現する事とは』と教えてくれたのに、僕はまた同じ様なくだらない事で悩んでいた。
「まあ、何度も同じ道を行ったり来たりする時期やな。そうやって自分の音が出来上がっていくんやからな」
とオヤジは目の高さまで持ち上げたビアグラスを見つめて言った。
「亮平。楽しんで悩め。それが今お前が持っている一番の特権や」
「うん」
僕は素直に頷いた。
「そうしたら今しか出せん音が生まれるかもしれん」
「そうなん?」
「苦しんだ後にしか出ない音があるのは確かやからな」
「父さんにも経験あるの?」
「父さんかぁ……あったなぁ……」
とオヤジは昔を思い出す様に視線を天井の方に向けた。
「あったけど……もう忘れたな……」
そう言ってオヤジは視線を落とすと、一息ふぅっと吐いてから持ち上げていたグラスに口をつけて一気にビールを飲み干した。
オヤジが悩んで探し出した音は、とても綺麗な色をしていたんだろうな。できれば見てみたい、聞いてみたいと思った。
そして、僕が今しか出せない音……そんな音をこれから僕は何度出せるんだろう? と思った……と同時に、今のオヤジには昔の事は思い出したくない事なんだろうか? と少し気になった。
オヤジはグラスを安藤さんに差し出すと、
「フィディック」
といつものスコッチを注文した。そろそろスコッチの時間らしい。
オヤジは安藤さんがロックグラスにお酒を注ぐのを見つめながら
「下手な考え休むに似たり……やな」
とひとこと呟いた。
「え?」
僕が聞き返すと
「しょうもない事をウダウダと考えとるのは単なる時間の浪費で、休んでんのと一緒っていうこっちゃ」
と教えてくれた。
「そっかぁ」
「まさに今の亮平やな」
オヤジはそう言うと愉快そうに笑った。
返す言葉が無くて、ちょっと悔しい……。
「そう……今の亮平には……な。まだ早い……」
とオヤジは呟いた。もう笑ってはいなかった。
僕がその台詞の意味を聞き直そうと思ったその時、店の扉のカウベルがなった。
入ってきたのは制服姿の冴子と宏美だった。
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