第301話 冴子と宏美
店の中の空気が一瞬で変わった。
僕は少し救われたような気分になったが、冴子に今の会話を聞かれなくて良かったとも思った。
「こんばんは」
と宏美の声がした。
そのすぐ後に
「あ! やっぱりおったわ!」
と冴子の叫ぶ声が響いた。何か僕に言いたい事でもあったのか?
宏美は冴子の隣で愉快そうに笑っていた。
「あんたなぁ、何さっさと帰ってんねん」
そう言うと冴子は僕の隣に座った。
「お、新任部長のお出ましか?」
と僕が冴子に何かを言う前に、安藤さんが冴子に声を掛けた。
「あ、こんばんは。そうなん。そんなもんになってしまいました」
と冴子は笑って安藤さんとオヤジに挨拶をした。
そして
「ミルクティ下さい」
と安藤さんに注文した。
「じゃあ、私も……」
と宏美も同じものを注文した。
「ダージリンが入ったけど?」
と安藤さんがティーカップをカウンターに並べながら聞いた。
「え? 一番摘みですか?」
と冴子が意外そうな表情で聞き返した。
「そう。ファーストフラッシュ」
なんだか安藤さんは自慢げな表情に見えた。
「そっかぁ。それならストレートにしようかなぁ。宏美は?」
「うん。私も同じにしよっかな」
と宏美は頷いた。
――二人は紅茶にはこだわりがあるのか?――
と思いながらこの会話を僕は聞いていた。
「了解。ところでどう? 部長になって?」
と安藤さんはティーカップにお湯を注ぎながら冴子に聞いた。
「まだ実感はあんまりないです」
と冴子は答えた。
「そんなもんやろうなぁ」
その様子を見ながらオヤジが
「ここも高校生のたまり場になったのぉ」
と愉快そうに笑った。
「ほっとけ。誰のせいやと思っとんねん」
と安藤さんはオヤジを一瞥して「ふん!」と鼻を鳴らした。
僕はこのオッサン二人の会話にはこれ以上関わらない方が良いなと思いながら
「で、なんか俺に用があったん?」
と冴子に話しかけた。
「そうやった。あんた帰るんが早いんや。今日は部活さぼったやろう?」
と冴子は矢継ぎ早に僕をなじった。
「いや、ちゃんと出たで。今日は一人でピアノ練習する日やったからな。ちょっと早めに上がったのは事実やけど……」
と僕は言ったが、冴子の耳には単なる言い訳にしか聞こえなかったような気がする。
「まあええわ。そんな事よりあんたに言わなあかん事があってん」
その上僕の言い訳など全く興味がない様子で冴子は話を続けた。やっぱり何か言いたい事があった様だ。
「なに?」
「今度の部活紹介あるやん? そのステージでの演奏が変更になってん」
今週末に新入生向けの部活動発表会が予定されていた。器楽部は吹奏楽部の後に新入部員勧誘のための部活動紹介をする事になっていた。
そこで僕達は『カノン』を演奏する予定だった。
「え? カノン止めんの?」
と僕は驚いて聞き返した。
「ちゃう。カノンはやるんやけど、編成が変わってん」
と冴子は首を横に振った。
「へ? 編成?」
全く予想していなかった言葉が帰ってきたので、僕は思わずまた聞き返してしまった。
その時、安藤さんが冴子と宏美の前に、淡いオレンジ色のダージリンに満たされたティーカップを置いた。
「クッキーもサービスしておいてあげるわ。丁度貰いもんがあったからな」
と綺麗にクッキーが並べられた細長いクッキー皿を彼女たちの目の前に置いた。
冴子と宏美が歓声を上げて安藤さんにお礼を述べていた。
僕はその様子を見ながら思い出していた。
今回の曲目と編成は美奈子先生が決めた。
『器楽部はカノンに始まりカノンに終わる』
と美奈子先生はこの頃よく言う。
今春卒業した先輩達との初めての音合わせがこの曲だったし、さよならコンサートのアンコールもこの曲だった。僕自身にもこの曲には想いがある。だから今回の新入部員勧誘の発表会で、この曲を演奏すると決まった時も全く異論はなかった。
ただ予定されていた編成はピアノを入れた六重奏だったはず。
それが変わったというのか?
クッキーとダージリンを味わった冴子は改めて
「最初はピアノがあんたでヴァイオリンが瑞穂と宏美。ヴィオラはシノン。チェロはてっちゃん。コンバスはたっくんって先生が言うとったやん?」
と確認するように聞いてきた。
「うん。言うとった」
と僕は頷いた。冴子の言う通りだった。
「でもそれってあんた反対しとったやん」
と冴子は僕の目をまっすぐに見て言った。
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