第94話 受験


 そして視線を僕に移して

「思った以上に個性的でいい音出していたね……でもこの曲ではまだちょっとまとめきれてない感じかな?」

と聞いてきた。


「はい」


「自分でも分かっとん?」


「うん。昔の事を思い出しながら弾いたんで弾いている分には楽しかったんやけど、出したい音を弾こうとするとどうしても微妙にタイミングが遅れているような気がしてた。昔みたいに弾くと音が軽く感じるし……音と音の間の微妙な空気が気に入らん。まだこの曲が僕のものになっていないっていう感じで、音を探しながら弾いていたような気がする」


 まとまりもない言葉だったが、僕はピアノを弾きながら感じていたことを渚さんに素直に話した。

しかし安藤さんの店で弾いて以来感じている不思議な感覚や、ピアノとの会話の事は言わなかった。言っても理解できないと思うし、逆に変な奴だと思われるのがオチだ。

ただ渚さんはそれを言わなくてもちゃんと僕の状況を解ってくれているようだった。


「なぁんだ。ちゃんと分かっとんや。凄いなぁ」

渚さんは驚いたように目を見開いて、そしてまた笑った。


「ほんの少しの差なんやけどね……そうかぁ……そこまでちゃんと分かっとんや……とってもええ音なんやけど、音の個性が強すぎるのよねえ……まだ制御できていないというかなんというか……この曲は華やかに聞こえて実は案外聴かせる曲だったりするからね」

そう言うと渚さんは先生と目を合わせた。

先生は軽く頷くと優しく笑った。


 渚さんも先生の意思を確認したように頷くと僕の方に向き直った。

「まだ自分のものになってないって感じがするなぁ……でも今からこんな弾き方ができるなんてそれだけで凄いんだけどね……でもそこに行くにはまだ早すぎるかもしれんなぁ……」

と言って聞かせるように僕の顔を見つめて言った。


「まだ早すぎるって?」


「うん。色々な理由でね。亮ちゃんは出したい音は分かっているようね。でも、その音が出ない……届かない……まどろっこしい……。その原因が分からない……今はそんな感じやね?」


「うん。そんな感じ」

僕は素直に頷いた。まさにその通りだった。


「なるほど……これは自分の感覚で掴むしかないからなぁ……一つ一つの音を自分のものにしないと、フレーズで弾くのはまだ難しいわね」

渚さんは一言一言話をするたびに考えているようだった。自分の言った台詞をもう一度噛み締めるように、僕の言葉ひとことひとことを自分に言い聞かせるように考えながら話を進めているような感じだった。


 人に物を教えるとは本当に難しいんだなと渚さんを見て思った。

僕は、あの渚さんが言葉を選びながら話をしてくれるのがとても嬉しかった。それだけ僕の事を考えながら話をしてくれてるというのが伝わってきて本当に嬉しかった。


 急に声の調子を変えて思い出したように渚さんが聞いてきた。


「うん。ちょっと聞くけど、音大行くつもり?」


「うん。藝大を狙っとぉ」


「師事したい先生でもおるん?」


「いえ、別に」


「う~ん。そうかぁ。なんで藝大?」


「う~ん。なんとなく……かな。母が出た大学で、父が諦めた大学でもあるからかな」


「お母さんも何か楽器を?」


「いえ。母は絵。父はピアノやったけど」

僕は首を軽く横に振って答えた。


「そうなんや。なんかすごい芸術家家系やね。じゃあ、ピアノはお父さんからの遺伝かな?」


「分からへんけど、そうかもしれんと思う」

 そう応えたが、間違いなくそうだろう。少なくとも僕がピアニストになろうと思ったのはオヤジの音を感じたからだった。オヤジからの遺伝子だけではないが、少なくともオヤジの子供でなかったらこんな感覚は味わえなかったと思っている。


 渚さんは少し考えてからまた話し始めた。

「ここからは受験論になっちゃうけど聞いてね」


「うん」


「藝大に入るならそこの先生たちをよく知っている人に習う方が早いわ。それの方が明らかに傾向と対策は立てやすいから。受験のためのピアノ教室もあるし……それか、有名なコンクールに出て賞を取るかやね。でも藝大はあまり関係ないか……」


「なんで?」


「そういうのは藝大はあまり見いひんからね」


渚さんはふぅと軽く息をはいてから話を続けた。

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