お嬢と美乃梨の夏休み

第144話 夏休みの昼下がり


 夏休みに入って僕はいつものように昼間から安藤さんの店にいた。店内は僕と目の前のカウンターの中でヒマそうに煙草を吸っている安藤さんだけだった。

JBLのスピーカーからはいつものように六十年代のロックが、ウッドストックの熱気と共に怒涛の如く店内に流れ込んでいた。

 外に比べるとエアコンが効いて店内は涼しいはずのに、ウッドストックのライブの熱気は時代を超えて店内で暴れまわっていた。



「亮平。お前もホンマにする事ないんやな?」

 安藤さんは呆れ気味に聞いてきた。六十年代生まれではあるが、今はオッサンになり果てた安藤さんに、そんな熱気はもはや全く見当たらない。影も形も感じない。どちらかと言えば、僕は永久凍土の中で冷え固まっているオッサンを発見した登山家のような気分になっていた。


「まあ、ないっす。この店と同じです」

 しかしながら同じく熱気のかけらも情熱もない僕はアイスカフェラテを飲みながら素直に安藤さんの言葉を肯定した。この頃、アイス珈琲よりこれを飲む方が多い。


「おろ? お前も言うようになったなぁ」

軽く眉間に皺を寄せて安藤さんは言った。


「あ、すんません」

僕は慌てて謝った。一言多かったか?


「で、なんか部活やっているとかいうてなかったっけ?」

別に安藤さんは気分を害したような雰囲気もなく笑いながら普通に会話を続けた。


「うん。器楽部に入ってます」


「あ、それそれ。それって夏休みは部活ないんか?」


「あるけど、うちは基本的に週に三日やから今日は休みです」


「そうかぁ……そんなもんかぁ。毎日はやらんのや」


「ですね。そんなにはしないです……他にみんなやる事がありますからね」

 三年生は各々のコンクールの準備で忙しいし、日々の個別レッスンがある。二年生ももう準備をしていてもおかしくないし、レッスンは同じように受けている。


「ん? ああ、そうかぁ……結構、経験者集まったんやて?」

安藤さんは僕の台詞で今回の部員募集で経験者が多く入部した事を思い出したようだ。


「そうなんです。ちょっと僕も驚いてます。それに冴子も宏美も入部してきたから」


「え? あの二人も? ホンマにお前ら仲ええな」

安藤さんはまたもや呆れ気味に笑った。


「まさかあいつらまで来るとは思っていませんでしたから……二人とも暇なんでしょう」

と僕が答えると

「そうやなあ……ホンマに腐れ縁やなぁ」

と安藤さんは煙草の煙を吐き出しながらどうでもいいように答えた。どうやら安藤さんにとって僕達は三人でワンセットみたいなもんらしい。それ自体になんの興味も湧かないようだった。


「で、クラシックばっかりやってんのか?」


「いえ。ポピュラーとかロックもやってますよ」


「そうなんや?」


「結構ヴァイオリンってロックに向いてますね」


「あ~それ、なんか分かるような気がする」

安藤さんは笑いながら今度は鼻から煙草の煙を勢いよく吐き出して頷いた。


 扉のカウベルが鳴って扉が開いた。

入って来たのは安藤さんとの腐れ縁がいまだに続いているオヤジだった。

「暑い……」

と片手で新聞紙で顔を仰ぎながら、今すぐにでも溶けてしまいそうな表情で入って来た。

その姿からはウッドストックの熱気は感じないが、炎天下に程よく焼かれたオッサンの痛ましい熱気は充分伝わって来た。


「おう。来とったんか?」

オヤジは僕に気が付くと僕の肩に手を置いてそのまま隣に座った。


「うん」


「アンちゃん、アイスオーレ」

オヤジはメニューも見ずに注文した。


「ああ」

安藤さんは面倒臭そうに返事をすると、のそっと立ち上がった。


 出てきたアイスオーレにオヤジはたっぷりとシロップを入れた。

珈琲は絶対にブラックだが、アイスになるとシロップをぶちまけるオヤジの好みは理解できない。首尾一貫していない。しかし、ある意味ではこのパターンはブレないので初志貫徹しているともいえる。


「今日は部活ないんか?」

オヤジは僕の顔も見ずに聞いてきた。


「うん。今日はない」


「そうか」

そう言うとオヤジはアイスオーレをストローで美味しそうに飲んだ。


「ビールが欲しいんとちゃうんか?」

安藤さんが横目で見ながらオヤジに聞いた。


「いや、それほどでもないな」

以外にもオヤジは即答で断った。珍しい……そう言うとオヤジは持ってきた日経新聞を広げて読み始めた。


 JBLからの流れていたウッドストックの熱気はいつの間にか過ぎ去り、代わりにJanis Joplinが叫んでいた。



 暫くしてオヤジが

「亮平。お前、夏休みはヒマか?」

と新聞紙から目を離さずに僕に聞いてきた。


「うん。部活以外は基本的にヒマ」


「また田舎行くか?」


「田舎? お嬢に会いに行くん?」

僕はオヤジの横顔を見た。


「ああ、それもあるけど、ジジイが連れて行けとうるさいんや。だからジジイが死ぬ前に冥途の土産に連れて行ってやろうと思っとぅんやけど」

とオヤジは新聞紙に目を落としたままそう言った。


「まだ冥途の土産には早いやろ」

僕がそうツッコむと

「そうやな……何とかは世にはびこるって言うからな」

 オヤジは僕の顔を見て笑った。口元が少し歪んでいた。もしかしたら親父は他の意味で笑ったのかもしれない……となんとなくそう思った。と、同時にそれを言うなら「はびこるではなくはばかる」だろうと心の中で突っ込んでおいた。

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