第143話 Piano Man
その楽譜には
「Billy Joel - Piano Man」
とクレジットされていた。
「この曲知っとう?」
拓哉はなんだか自信なさげに聞いてきた。
「Billy Joelかぁ……知っとうで」
「ちょっと弾いてくれへん?」
「今?」
僕は少し驚いた。まさかこの場で唐突にクラシックでもないポピュラーな曲を急に弾けと言われるとは思ってもいなかった。
「うん」
僕は周りを見回してみた。まだこのチーム全体での練習を始める雰囲気ではない事を確認して僕はピアノに前に座った。
「Dm7かぁ……で、これはやっぱりハーモニカ欲しいなぁ」
この曲は何と言ってもイントロのハーモニカが有名な曲だ。
僕は楽譜に目を通しながら呟いた。
「あるで」
拓哉はそう言うと学生服のポケットから10ホールズとも呼ばれるブルースハープを取り出した。
それはHOHNER社のブルースハープで穴が10個しかない。それなのにとても幅広い表現力を持つハーモニカだ。
「用意のよろしい事で……」
と僕は軽く呆れながらも譜面板に楽譜を広げた。
何故、拓哉がブルースハープを用意していたのかが気になったが、敢えて聞かなかった。理由を聞くのは後でも良い。
今はこの曲を弾く事が先決だと思った。
イントロのハーモニカの前にジャジーなピアノソロからこの曲は始まる。
僕は目の前にロサンゼルスのピアノラウンジをいるつもりで弾き始めた。酔客の雑談まで聞こえそうだ。
拓哉は僕のピアノに合わせてブルースハープを吹き鳴らした。自前でブルースハープを用意するだけの事はある。綺麗な音がまるでBilly Joelが吹いているかのように鳴り響いた。音の粒が踊っている。
僕の目の前にある楽譜は弾き語り用だ。拓哉がもしかして歌うのかな? とも考えたが、どうやら違ったようだ。僕の耳に届いたのはチェロの綺麗な艶のある音色だった。
哲也がチェロを弾いていた。
なんだか理由は分からないが、この二人は最初から演奏する気が満々だったようだ。それにしても何故この曲なんだろう? と不思議だったが、演奏しているうちにどうでも良くなった。この曲はとても居心地がいい。それだけで充分だった。理由は演奏が終わってからでも聞こう……。
瑞穂や冴子、それに宏美も僕達の演奏を聞いている。最初は急に何が始まったんだ? というような顔をしていたが、途中からは僕らの演奏にリラックスした感じで耳を傾けていた。
拓哉はブルースハープを吹いていない時は、つじつま合わせの様にコントラバスを弾いていた。でもそれはそれでいい味を出していた。拓哉との重奏低音のユニゾンはなかなかいい感じだった。やっぱり彼のコンバスは安心して聞いていられる。
想像以上にチェロの音色は自然に音の粒を溶け込ませてくる。
――チェロの音ってまるで歌っているように聞こえるんんやなぁ――
新たな発見だった。
――こんな融合があるんだ――
ソリストの僕は今までチェロの音色をそういうに考えて聞いたことが無かったので、とても新鮮な感覚に包まれていた。
――やっぱりこうやって誰かと一緒に演奏するのは楽しい――
それにしても哲也のチェロは良い音を出している。つい最近まで伸び悩んでいた奴とは思えないのびのびとした音だ。まるでBilly Joeが歌うか如く、綺麗な音の粒を音楽教室に鳴り響かせていた。
――哲也はいつの間に立ち直ったんだ?――
僕はチェロという楽器の表現力の豊かさに驚かされていた。それと同時に他の楽器と一緒に戯れる事の無限の可能性を再認識していた。まだまだ知らない事が沢山ある。ヴァイオリンは別としてピアノ以外の楽器にはあまり興味が無かった僕はこういう新鮮な驚きが楽しくて仕方なかった。
楽しい時間はいつかは終わる。
ピアノとチェロとブルースハープの調べが重なって僕達の演奏は終わった。
「へぇ、男子やるやん!」
瑞穂が叫んだ。
「ホンマや。ただ単にむさ苦しいだけの奴等ではなかったみたいやね」
と冴子が畳みかける。
「うん。とってもオシャレ」
と宏美まで一緒になって褒めてくれた。
彼女たちのちょっとひねくれた賞賛を聞きながら僕の気分は少し高揚していた。いや、哲也も拓哉も顔がほころんでいた。どうやら彼らも僕と同じ気持ちの様だ。この曲は弾いていて気持ちがいい。
「……で学生服がダサいかも」
と冴子は相変わらず一言多い。
「しゃあないやろ。ここは学校やねんから」
と哲也が笑いながら冴子に反論していた。
拓哉が僕の耳元で
「ありがとうな。これ弾いてくれて」
と呟いた。
「いや、別に。大したことはないよ。そんなに難しい曲でもないし」
と僕は拓哉の丁寧な感謝の言葉に違和感を少し感じながらも、拓哉が喜んでくれたならそれはそれで嬉しかった。
「うん。これな。思い出の曲なんや。一度演奏してみたかってん」
僕は拓哉の顔を改めて見つめた。
さっきまでの笑顔は消えて、ちょっと寂しそうな表情に見えた。
「そうか。いつかその思い出話を聞かせてくれや」
「うん。また今度な」
そこで僕と拓哉の会話は終わった。どんな思い出があるのか聞きたかったが、本人がそれを語りたくなさそうだったので聞くのは止めた。無理強いはしたくない。
そんな感じで毎日僕たちは部活を楽しみながら日々過ごしていた。
僕達の部活はそれなりに充実していたと言えるだろう。それは大学受験がまだまだ先の事というのもあるが、僕自身は今までソリストの立場から一パート演奏者という変化が非常に刺激的だった。
僕はこの器楽部に入部した事を本当に良かったと満足していた。
そう、確かにこの時は。
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