第169話哲也の拘り


「お前、先生について習っているんやろ?」

拓哉が聞いた。


「ああ」

と哲也は小さく頷いた。


「先生に普通に指示を受けていたら、まずそんな事で悩まんやろう?」


「いや、俺もそんな事で悩むとは思わなかってん。確かにそういう事はコンクール前に注意されてるから頭に入っているし、日ごろの練習でも気を付けているけど、それだけではないような気がすんねん。上手い奴はそれ以上に何か音に艶がある。雰囲気を持っているねん。俺にはそれが無い」


「まあ、上手い奴はそんなもんやなぁ……でも、お前も上手い奴の部類に入るんちゃうの?」


「そんな事無い。まだまだや。まだチェロの本当の音を響かせてない」

と哲也は首を振った。今の彼は、自分の音に自信を無くしている。


「そうかなぁ……そんな事無いと思うんやけどなぁ……で、真奈美もそんな事を考えていたんか?」

と拓哉は真奈美に聞いた。


「うん。ちょっとだけ考えていたかなぁ……でも、今はそんな事は考えへんけど……」


「なんで考えへんようになったん?」

と瑞穂が聞いた。


「だって、考えても仕方ないもん。自分でも分からん音を考えたところで出せる訳ないもん。そもそも私は立花君みたいにコンクールに命賭けてないもん」

と真奈美は言った。見た目は気の弱そうな雰囲気を持つ真奈美だったが、さっぱりと割り切れる意志の強さを持った人間なのかもしれない。


 周りでそれを聞いていた瑞穂、琴葉、拓哉そして僕は激しく頷いた。皆多かれ少なかれ同じような経験があるのだろう。


「でも、こんな話……亮平は関係ないやろ?」

哲也が急に僕に話しを振ってきた。


「え?なんで? 俺や?」

僕は急に哲也に話を振られたので驚いた。


「お前は本当に自由に好き放題弾いているような音やのに、ちゃんとコンクールの音になっているやん」


「そんな事無いで。俺かってそれなりに考えているでぇ」

と僕は即座に哲也のいう事を否定した。確かに僕もつい最近まで悶々と考えていたが、それは哲也とは違う理由だった。


 元々コンクールの為に楽譜通り弾く事は嫌いではなかった。とことん正確に弾くのに執念を燃やした時もあった。その上で自分なりに表現をぎりぎりの線で加えるのもそれなりに楽しかった。

たまたま結果がそれについてきてくれたので、僕は評価されただけだった。だから哲也のように審査員受けする音を出すのはゲーム感覚だった。悩む対象ではなかった。


そんなものは単なる技術だと思っていた。


 しかし、今はその瞬間その瞬間に自分が感じた音を、この空間に漂っている音の粒をどうやって一番美しく散らすかを考えている。僕の場合、それだけ考えていれば良いモノを、それをコンクールと結び付け過ぎて迷ってしまっていた。


 だから今は、コンクールでも自分の好きなように弾くか、気が向いたら審査員に受ける音をどこまで追及できるかを楽しんでやろうと思っている。審査結果はそれほど問題ではない。


それはオヤジに教えて貰った『音楽とは楽しんでやるもんだ』という一言のお陰だった。


『努力を楽しいと思える奴に、音楽の神は微笑む』

とオヤジが言った事があった。

そして

『この世の中で努力を努力と気付かずに楽しんでやれる奴が一番強い」

ともオヤジは言っていた。

オヤジはどうだったんだろうか? その言葉が一番当てはまるのはオヤジのような気がする。


そのおかげか割り切ったらコンクールに出る気持ちが一気に失せた。今の僕の迷いはそこにある。


「いいや、あんたはなんも考えてへんわ」

と冴子の声がした。

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