第170話 宏美と冴子
振り向くとそこに冴子と宏美が居た。
「なんや? お前らいつ来たんや?」
「今さっきや」
と冴子は僕を見下ろして言った。
「なんも考えてへんあんたの話はええわ。それよりも哲ちゃんのその心配性な性格治さんと、これからしんどいで」
と僕の横に立ったまま哲也に言った。
「うん。それは分かっとるねんけどな」
「まぁ、これだけは自分で解決せなどうしようもないんやからね」
と冴子はサッサと突き放した。彼女は本当に厳しい。
「うん。分かっとぉ」
と小さい声で哲也は答えた。冴子には哲也も反論する気も失せるようだ。この威圧感はその辺の女子高生には醸し出せないだろうと思う。
僕は一連のやり取りを見ていて哲也が気の毒になった。
瑞穂と冴子に連続で罵られた哲也はさらに落ち込んでいるように見えた。
「ちょっとその辺ぶらついてくるわ」
哲也はそう言って立ち上がると、そのまま音楽室を出て行った。僕は後を追いかけようとも思ったが、立ち上がりもせずにただ後ろ姿を見送った。
彼の痛々しい後ろ姿を見送りながら、彼のスランプは相当重傷である事を感じた。
彼が導き出す旋律は彼が言う程酷い音ではない。いや、どちらかと言えば美しい音色だ。しかし彼はそこのコンクールというフィルターを自ら被せて勝手に悩んでいる。僕には何となくその悩みの理由が分かるような気がしていたが、今彼にかけるべき言葉を僕は知らなかった。
僕は彼に声を掛ける代りに
「冴子、お前、それは言い過ぎやろ」
と冴子を諫めた。
「えぇ!? そんなこと無いわ。これでも気ぃつこうて言うてるで」
と事も無げに答えた。
お前の気を遣うという基準はどこにあるのか小一時間ほど膝を詰めて確認したくなったが、それは言わずにいた。
僕のそんな気持ちはお構いなしに
「ちょうどええわ。亮ちゃん。伴奏してよ」
と言うと冴子は僕に顎でピアノの前に座る様に指示した。
「はぁ? 何を急に?」
僕は思いっきり怪訝な顔をして聞き返した。
「これ、弾いた事あるやろ」
冴子が僕の目の前に突き出した楽譜は『ツィゴイネルワイゼン』だった。
この曲はスペイン生まれのヴァイオリニストであるサラサーテが一八七八年に作曲した曲で、本来は管弦楽伴奏付きのヴァイオリン独奏曲である。伴奏を管弦楽ではなくピアノ伴奏で演奏する場合も多い。
彼女が差し出した楽譜は勿論後者だ。
僕はそれを受け取ると楽譜を一読した。
八分間そこそこの曲だが三部構成に主題が別れている。
「これを今から弾けと?」
僕は冴子を見上げながら聞いた。
「そう。亮ちゃん、この曲まだ覚えているやろ」
冴子がそう言って僕をじっと見た。いつも彼女の目力(めぢから)は強いなとは思っていたが、今日はいつもに増して強い。
思わず視線を外して隣に立っていた宏美を見たが、彼女は硬い表情で僕を見ていた。
――何かあるのか?――
と聞きたくなったが、この場でそれを聞くのは憚られた。
第一、冴子の表情がそれを許さなかった。
この曲は僕がヴァイオリン教室を辞める寸前まで冴子と一緒に演奏していた曲だ。
確か冴子に伴奏を頼まれて弾いてみたものの、冴子自身が納得のいく演奏ができずに終わった曲だった。後半のピチカートが上手く弾けずに冴子は毎日悔しそうな顔でこの曲を練習していたのを僕は思い出した。
僕はそのままヴァイオリン教室通うのを辞めてしまったので、冴子との演奏もそれで終わった。その当時は冴子に散々弾かされた曲だったが、僕ははそれ以降この曲を弾いていない。もちろん冴子とこの曲を一緒に演奏するのはその時以来だ。
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