第216話コンクールの後
「なに冴子に個人レッスンしとんねん」
「あれぇ? 冴ちゃん、うちの星の王子様にばらしたん?」
と、意外そうに冴子の顔を見た。
「え? 星くずの王子様にはまだなんも言うてないです」
と冴子は頭を上げると首を振った。
「え?」
オヤジは驚いたように僕の顔を見た。
「あんなもん聞いたらすぐに分かるわ。それに俺は星の王子様なんかになった覚えはないぞ!」
僕は二人に見くびられたような気がして少し憤慨していた。
「そうかぁ……やっぱり分かるかぁ……流石、王子様やな」
そう言いながらオヤジの口元は緩みっぱなしだった。
僕が何を言っても面白くて仕方ないようだ。確かにツッコミどころ満載だろう。
――……というか、俺はそもそも王子様ではない――
「焦ったやろう?」
早速、いたずらっ子のような顔をしてこの中年オヤジは聞いてきた。
見ているだけでなんだか腹が立つ。
「ふん。まあ、少しぐらいは……」
「頭真っ白になったやろう?」
少しオヤジに対して殺意が湧いた。
「……」
――なんで分かんねん――
「図星みたいやな」
そう言うとオヤジは今度は声に出して笑った。
しゃくだったがその通りだ。言い返す気力も湧かないほど図星だった。
どうやらオヤジには全てお見通しだったようだ。
「真っ白な頭で演奏したらどうやった?」
できる事ならこんなオヤジには何も答えたくなかったが、僕が感じたこの感覚を理解しできるのはオヤジしかいないというのも分かっていた。
「何か知らんけど考え過ぎて訳が分からなくなって自分の弾きたいように弾いてたら、舞う音の粒に自分が一緒に溶けているような気がしたわ」
と素直に思い浮かんだ言葉を全部言ってみた。
本当はもっといろいろな事な感覚を味わっていたしピアノを弾いている感触が今までとは全然違っていて、それをうまく言葉で説明できないもどかしさも感じていた。
もしかしたら実はその時感じた感覚を誰かに伝えたかった……いや、正直に言うと初めからオヤジには伝えたかったのかもしれない。
僕の言葉を聞いたオヤジの勝ち誇ったような顔を見て、僕は脱力した。
――腹立つけど、このオヤジにはまだ勝てんな……お見通しや――
しかしオヤジは僕の想いとは裏腹に
「おお、なんか格好いい事を言うてんなぁ……でもなぁ。ええ演奏やったわ。あれは間違いなくお前だけの音やったなぁ。亮平しか出せん音やった」
と満足そうな笑みを浮かべた。もっとツッコまれるのかと思っていたのだが、なんだか褒められたような気がした。
その一言で僕の中に少し残っていたわだかまりが消えた。自分で言うのもなんだが……僕は単純かもしれない。
「そうなんかな? でもどんな演奏したかはっきり覚えてへんねん」
「そうかぁ……まあ、そんなもんやろうな」
昔の記憶を辿る様にオヤジは少し考えてから言った。
「父さんも経験あんの?」
「ああ、あったなぁ……で、お前は至福な時を過ごせたんか?」
オヤジは当然のごとくと頷いてから僕に聞き返してきた。
――そうかぁ、やっぱりオヤジもあの景色を見ていたんや――
オヤジと一緒の景色を見たと思うと少し嬉しくなった。
「うん。もう一度あの景色が見たい」
そう言いながら僕にはあの情景が色が目の前に蘇っていた。本当に至福な時だった。
「ほほぉ。だったらもう大丈夫やな」
「何が?」
「頭でっかちのピアニストにならんで済んだってことや」
と言うと
「自分で感じた音が全てや。理論と技術があってもお前のピアノには風景が無かった。確かにええ音出しているんやけどそれだけやった。そう……自分の感じた音をそのまま出すってことが……何故か欠落してしまっていたんやなぁ」
と言葉をつづけた。
「あれが俺の音? ……って人生の何か大事なものをどこかに無くしてしまったような愚か者みたいな言われようやな」
「はは、そんな大層なもんかぁ……でも、おもろい事言うなぁ。まあ、欠落したというか敢えて見ない様にしていたというか……。兎に角やなぁ、あれはお前の音やった。厳密に言うと今日のお前がこの場で感じた音やな。お前の音とか決まったもんがあるわけではないっちゅう事は、分かったやろう? もしあるとしたらそれはお前だけのタッチや。そしてお前だけの世界観や」
「俺だけのタッチに世界観かぁ……うん。まだ感覚でしか捉えられてないけど、なんとなくわかるような気がするわ。少なくとも今日の世界観と言うか……一瞬で消え去るような……でも確かに掴んだような……」
お嬢と出会う前にも、好きなように思いつくまま弾く事はあった。それを伊能先生には『コンクールとか発表会でそのまま弾いても良いのよ』と言われたこともあった。確かにそれはそれで個性的な音だっただろうし、ある意味自分の感性だったかもしれない。でも、今日実感した音の粒とは明らかに違う。今日の音の粒は自分自身でも『これが僕の音だ』と思う箇所が何度もあった。全てではないが自分の魂を削り出した音の粒だという実感があった。
「ほほぉ。その顔はそれなりにちゃんと理解しとうみたいやな。流石は我が息子と言うか、その勘の良さは母親似やな」
と今度は本気で感心したように頷いた。
オヤジの言葉を聞きながら僕は『何故冴子にあのピアノを教えたのか』を問い詰めたいと思っていた。
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