第305話 器楽部のカノン
先生はマイクのスイッチを入れ直すと
「器楽部顧問の長沼です。今から演奏する曲『パッヘルベルのカノン』は正確には『3つのバイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』と言います。とても有名な曲なので皆さんも一度は、どこかで耳にした事のある曲だと思います。きれいな音色と旋律を持つ曲です。
そしてこの曲はこの器楽部にとっての特別な曲だったりします。それではお聞きください」
と簡単に曲を説明してマイクを指揮台に置いた。
先生はゆっくり僕達を見渡した。一呼吸おいて、すっと指揮棒が上がった。
一瞬で緊張感が高まる。
ヴァイオリンのイントロでカノンは始まった。
すぐ後に続く導入部の重奏低音の旋律を早崎陽一のオーボエがゆっくりと奏でる。コンバスとビオラがピチカートでその音色を優しく支える。千龍さんと石橋さんが抜けた穴は大きかったがシノンとタックンがそれを埋めようとしている。
いつもは打楽器担当の沢田亜美と宮出悦子二年生コンビも今日はビオラに持ち替えて演奏している。ついでに言うと楽器は演奏しないと豪語していた美乃梨も何故かビオラを肩に乗せている。今回この三人をビオラにコンバートしたのはシノンだった。三人とも弓ではなく指でピチカートでの演奏だが楽しそうだ。
ゆったりとした淡い色の帯が流れていく。この景色もとてもいい。ピアノと違って管弦楽の景色は心地よい絹のカーテンに包まれているような気分になれる。
音色以外に、他の人には見えないこの景色を堪能できるこの瞬間だけはお嬢に感謝する。
ここでゆったりと再びヴァイオリンの音色が加わる。同時に瀬戸千恵子のフルートがオーボエに代わる様に入ってきた。
静かに講堂にパッフェルベルのカノンが流れていく。
主題の旋律を第一ヴァイオリンの僕たちが奏でる時が来た。彩音さんがいつも座っていた席には瑞穂が座っている。その横に冴子が居る。今回、瑞穂はこのステージがコンマスデビューでもある。
多分誰よりも彼女が一番緊張しているのではないだろうか?
でもそんな心配は杞憂と言うものだった。
瑞穂はいつもの瑞穂だった。堂々と彩音さんとは違う存在感を漂わせながら皆を率いている。もう立派なコンミスだ。
先輩達との懐かしい想い出に浸りながら、残ったメンバーで新しい音を紡いでいく。先輩たちが抜けた穴をまだ埋め切れては居ないが、僕たちの音の粒はこの講堂を舞い上がっていく。そして一つに溶けていく。
冴子が瑞穂に目配せするように視線を向けた。
瑞穂が軽く視線で返す。
楽しい時間が終わりを告げる時が近い。
ああ、僕は三年生になったんだなぁ……と何故かこの時になってやっと実感した。
そうだ。これからは全部僕たちが考えてやっていかねばならない。
さよならコンサートのアンコールで奏でたカノンはもうここには無い。
新しいカノンを僕達は作っていかなければならない。
全員の弓が同時にすーと弾き下ろされて、僕たちのパッフェルベルのカノンは静かに終わった。
講堂から拍手と口笛そして『ブラボー』と言う太い声が聞こえた。
どっかで聞いた事のある声だ。見ていた先生が声を張り上げたんだろう。
美奈子先生は指揮台を降りて客席に向かって頭を下げた。
冴子が立ち上がって先生からマイクを受け取ると
「みなさん! 如何でしたでしょうか? これが器楽部の演奏です。吹奏楽部とはまた違った趣のある演奏である事がお分かりいただけましたでしょうか?」
と観客席に向かって聞いた。
「それでは皆さん。音楽室でお待ちしております」
冴子がそう〆るとそれを合図にステージの全員が立ち上がり頭を下げた。
拍手が聞こえる。
冴子の横顔を見ると、ほっとした表情がありありと浮かんでいた。
――お疲れさん――
僕は心の中で冴子を労った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます