第304話 部長鈴原冴子

 第二ヴァイオリンの席に座っていた水岩恵子が立ち上がって客席に向かってお辞儀をした。


「彼女は昨年入部した一年生の一人です。もちろん未経験者でした。一年前の音はこんな感じです」

冴子がそう言うと恵子は弓を揺らしながら酷い音を出した。


 確かにそんな音を出していたような気がするが、弾き方はえげつなかった。流石にそんなに酷い波打つボーイングはやっていなかったと思う。大袈裟過ぎるが分かりやすい。


 それを聞いて冴子は

「本当はもっと聞くに堪えない音を出す予定でしたが彼女にもプライドがあるみたいで、今のは明らかにその当時よりはいい音を出してます」

と振り向いて恵子を見なが言った。


 恵子は首を振って強く否定して見せた。

見ていた新入生から笑いが起きた。今度もなんとか外さなかったようだ。


「で、これが今の彼女の音です」

と冴子が言うと恵子はヴィヴァルディの四季から『春』のあの有名な導入部のフレーズを弾いた。


 見事な音色だった。一年間でここまで出せるのか? と感心する位伸びのある良い音を出していた。


 新入生にはさわりだけで終わるのかと思わせておきながら、続けて第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスも加わり、一気に厚みのある音で続けて導入部を全員で弾いた。


 客席からもため息が漏れた。予想だにしていなかった弦楽合奏は新入生の気持ちを捉えるのは十分の効果があった様だ。管楽器の様な派手さは無いが、弦楽器がもつ独特のしっとりとした音色は先に吹奏楽部の演奏を聞いたばかりの一年生にとってそれなりにインパクトを与えたかもしれない。


 そもそも今年の新入生のこれまでの人生で、生の弦楽合奏を聞く機会はあまりなかったはずだ。その分感動も大きかっただろう。


 冴子は僕たち部員に向かって

「誰が他も弾いてよいと言いましたか?」

と憤って見せた。もちろんこれは演出である。

観客席からは笑いが起きた。散々練習した甲斐があった。


 日頃の冴子のタカビーな態度を知るメンバーはステージの冴子の演技に目を見張っていた。

この当日まで、毎日部長として彼女が必死に演技している姿を見ていた部員たちは、それなりに感じるものがあったようだ。だから、たかだか二十数小節の演奏を全員で必死になって練習していた。

僕はそんな事を思い出しながら冴子の後姿を目で追っていた。


 冴子は練習していた時よりも数段爽やかに見える。


――これなら何人かは騙されて入部してくるかもしれない――


僕は冴子を見ながらそう確信した。


 冴子の舞台は続く。


 気を取り直したように冴子は

「このように初心者でも一年でここまで弾けるようになります。そして後半ですが……弦五部が合わさると、あのように厚みのある音となります。初めて生の弦楽合奏を聞かれた方もいると思いますが、どうでしたか? 思った以上に臨場感を感じませんでしたか?」

と新入生に向かって言った。


「器楽部はこの弦楽器だけではなく管楽器も存在します。フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーンなどが加わるとオーケストラの編成となります。

現在、器楽部にはフルート、クラリネット、オーボエ、ティンパニーは居ますが、まだまだ足りません。

昨年何度かオーケストラとして演奏は出来ましたが、吹奏楽部の有志が参加してくれて初めて可能でした。昔から器楽部と吹奏楽部は仲が良かったのでそういう交流もあります。

なので入部した方は吹奏楽部と器楽部の掛け持ちもあり得ますが、その場合は吹奏楽部の部長に相談が必要です」



 舞台の上で冴子の後姿を見ながら僕は宏美に耳打ちするように小声で聞いた。

「冴子ホンマにノリノリやなぁ……練習の時よりテンション高(たか)ない?」


「うん。あの子は腹を括ったら強いから……」

と宏美は冴子を頼もしそうに見つめながら小声でそう言った。


 冴子は新入生に向かって一生懸命に話を続けている。必死で部長職を全うしようとしている。

その後姿を見ながら僕は

「ガンバレ冴子!」

と心の中で応援した。多分他のメンバーも同じように思っていたのではないだろうか? そんな気がした。


「それでは器楽部の演奏を聞いてもらいましょう。曲はパッフェルベルのカノンです。この曲はあまりにも有名なので聞いた事がある方も多いと思います。指揮は顧問の長沼美奈子先生です」

冴子がそう言うと美奈子先生がステージに上がってきた。冴子からマイクを受け取ると先生は指揮台に立った。


冴子は自分の席に着いてヴァイオリンを肩に乗せると、初めてほっとしたような表情を一瞬見せた。

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