第357話緊張感

「恵子どないしてん? 表情硬いで」

と僕は取り合えず恵子に話題を振った。

彼女がこの中で一番気心が知れている後輩だ。今ここで声を掛けるならまず彼女しかいない。


「はい……緊張してます……私のヴァイオリンどうでしたぁ?」

と自信無さげに恵子は聞き返してきた。


「まあ、良かったやないかぁ。でも緊張のせいか音が硬いな」


「やっぱり……」

と言って恵子は照れたように笑った。


「自覚あんのや?」


「少し……」

と小声で恵子は答えた。


「小百合は?」

と僕は矛先を変えた。


 急に声を掛けられた小百合は慌てたように返事をした。

「は、はい。亮先輩にはいつもは私の後ろのプルトでフォローしてもらっていたので慣れているつもりでしたけど、ピアノでは違いますね。正直に言って緊張しました」

そう言うとほっとした表情を見せた。彼女も緊張していたようだ。


 小百合が言う通り彼女が一年生でファーストヴァイオリンを担当していた時は、同じプルトの表(隣の席)には冴子が、その後ろのプルトで僕と宏美が彼女をフォローするように座っていた。

彼女が二年生になって後輩ができるまでは、経験者といえども冴子とか宏美がフォローについていた。

今年からは小百合が恵子たちをまとめなければならない立場だ。僕がどうのというよりも、そんな自分の立ち位置が変わったことを今この時点で彼女は明確に意識したと思う。


「そんなに違うもんかぁ?」


「はい。なんかいつもと立ち位置が違うからか緊張しました」

と小百合は答えた。


 敢えて僕はそれ以上突っ込まずに

「まあ、そんなもんかねえ……他のメンバーはどう?」

と軽く流した。


「師匠から『亮先輩は厳しいでぇ』って脅されまくっていたので緊張しまくりです」

とチェロの島村敦子が応えた。

 哲也はチェロパートの後輩から『師匠』と呼ばれている。それは哲也の自称『弟子』を名乗る高嶋喜一の影響だった。


「あいつぅ……変な先入観植え付けやがってぇ。少なくとも哲也よりは俺は優しいからな。そこんところはしっかりと訂正しといてな」


「はい、分かりました。訂正しておきます」

と敦子は笑顔で答えた。


「まあ、最初は緊張するのも仕方ないと思うけど、いつもの練習と同じやから。二年生は三年生と違ってメンバー同士のアンサンブルをあまりやってこなかったから慣れてへんと思うけど、同じやからな」


「はい!」

と五人全員が返事をした。


「でも敦子なんか哲也とかと*四チェロアンとかやるやろ?」

と僕は敦子に話を振った。


「え? あ、はい。やってます」

と敦子は唐突に話を振られたので慌てて答えた。


 チェロは他の弦楽器と比較して、表現できる音域が広いのでチェロだけで重奏もポピュラーである。

元々経験者で入部した敦子ならその経験も豊富にあるはず。


「だったらそれと同じやで。いつもみたいにもっと肩の力を抜いてやらんとな」


「はい。分かりました」

と今度は敦子は元気よくはっきりと返事を返した。その声に委縮した感情はもう感じられなかった。

哲也との絡みでチェロのパートの彼女とはヴァイオリンのメンバーほどではないにしろ、何度か哲也を挟んで話をした事もあった。そういう意味ではコンバスの仲村夕子も同じように何度か拓哉絡みで話をしたこともあった。


「真由も夕子もやで。この曲はそんなに緊張して弾く曲やないからね」


「はい」

と三原真由と仲村夕子は声を合わせて明るい声で返事をした。


 その時恵子が

「でも、緊張するなという方が無理ですよ」

と言ってきた。


「なんで?」


「だってぇ。先輩と一緒にやるの、結構取り合いだったんですよ」

と笑って言った。

言っているほどの緊張感は恵子からは感じられなかった。


「それってホンマかぁ? 悠一にも同じような事を言われたけど……」


「ホンマです! ねえ?」

と恵子は最後に小百合に同意を求めるように話を振った。


「はい。取り合いでした。私も一度は亮先輩と演奏してみたいと思っていましたからとっても嬉しいです。だからさっきの演奏は滅茶苦茶緊張しました」

と緊張したと言いながらも小百合は嬉しそうに笑顔で応えた。

それを聞いて他のメンバーも頷いていた。


「そこまで言うならもっと楽しそうに演奏してよ。緊張する前に……」

と僕は苦笑いしながら言った。


「は~い。そうしま~す」

と屈託のない笑顔を見せながら恵子が手を挙げて言った。

一気に場が笑いで和んだ。

やっとさっきまでの緊張感が溶けていった気がした。


 曲自体は既にここにいる全員の頭に全て入っているので、この日は特に前半の各々の楽器の入りを重点的に練習した。


 一年以上練習してきた仲間だ。それなりに気心は知れている。いつまでも緊張もないだろう。

慣れてくればもっといい音色が生まれてくると僕は思っていたが、何度か音を合わせるうちにいつもの練習時の空気が流れだした。

心地よい緊張感だ。同じ緊張でも余計な力の入っていないこの緊張感は僕は好きだ。


 そして一通りの合奏練習が終わると、僕は各々でのパート練習を指示した。





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