第356話初練習の日
そして恵子たちとの初練習の日がやってきた。
「パート練習は済んでいるよなぁ? もちろん?」
と僕は二年生五人を前に確認した。
「はい!」
と元気の良い返事が返ってきた。
そりゃそうだろう……カノンは全体練習の課題曲でもある。当たり前すぎる事を聞いて、ちょっと後悔した。
「じゃあ、一回音合わせしてみようか」
と僕はメンバーを一人一人確認するように顔を見た。
音楽室のピアノの前でヴァイオリン東雲小百合と水岩恵子、ビオラ三原真由、チェロ島村敦子、コンバス仲村夕子という二年生の面々が緊張した面持ちで僕を見つめていた。
僕は部活のオーケストラの練習以外でこのメンバーと演奏するのは初めてだった。ただ、ヴァイオリンの二人に関しては、教育担当として昨年から彼女らを見ていたのでどれくらいの技量があるかは分かっていた。
音楽室に『ポーン』とピアノの音が響く。
弦楽器の音合わせが始まった。いい音だ。音の粒が一つの流れに収束していくのが分かる。いい景色だ。
ふと僕は初めて千龍さんたちと音合わせをした時の事を思い出した。
あの時も僕のピアノの音に合わせて皆がチューニングを始めた。その景色を思い出して少し胸が切なくなった。もうあの瞬間は戻らない。記憶でしかない。でもこの切ない思いは悲しくもあるが何故か嬉しくもある。僕はまだあの時の感情を忘れていない証拠だから。
もう一度メンバーを見回した。真剣に音合わせをしている。
納得できる音の収束が終わった。
五人とも僕を見て合図を待っている。
その五人の表情を確かめてから、僕は視線をチェロの島村敦子に送った。
敦子は軽く息を吸って呼吸を整えると弦を静かに引いた。
音楽室に厳かにチェロの音が響く。その調べにヴァイオリンの小百合、恵子、ビオラ三原由美と順番に、最後にコンバスの仲村夕子とピアノの僕が加わった。
静かな通奏低音の絨毯が音楽室の床に敷き詰められていく。
それはピアノ・チェロ・コントラバスの調べに紡がれた音の絨毯だ。その調べに招かれるようにヴァイオリンの音の粒は絨毯をゆっくりと舞っている。
あの時の先輩達とは違う調べではあるが、けっして悪くはない。この一年、彼女達はこの曲を弾き続けてきているだけあって安定した良い音色だ。
僕はピアノを弾きながら彼女たちの演奏を見ていた。きれいな音色の割には表情が硬い。何とかミスらないようにと思いながら弾いているのがよく分かる。音の粒と共に緊張感も伝わってくる。
この中で器楽部に入ってから初めて弦楽器に触れたというのは恵子だけだった。
ヴァイオリンの東雲小百合はもちろんの事、ビオラ三原真由、チェロ島村敦子、コンバス仲村夕子この三人も経験者だ。
小百合のヴァイオリンの音色に恵子の音色が優しく支えている。思った以上にヴァイオリン二人のハーモニーは心地よく耳に届く。この日まで二人で何度も練習したのだろう。緊張感とともに彼女達の息の合った音の粒が流れてくる。
それにしても小百合の音の粒は強気だ。少なくとも何かを悩んでいる音ではない。強引な弾き方でも先走っている訳でもないが、何か強い決意みたいなものを感じる。
通奏低音部の島村敦子と仲村夕子の二人は自分の仕事を必死で全うしようと頑張っている。
緊張感と共にそれも伝わってくる。
――そんなに力まなくてもいいのに――
『だから後輩としては『一度はこんな先輩とやってみたい』って思うやろ?』
という言葉と、どや顔でふんぞり返っている悠一の姿を思い出した。
――緊張の原因は俺かなぁ――
と彼女たちの表情を見て思った。
緊張感が解けぬまま、最初の合奏は終わった。
安堵のため息が同時五つ漏れた。つられて僕もふぅと息を吐いた。
五人の表情はまだ硬い。試験の結果を待っている生徒のように僕を見つめていた。
「もの凄い緊張感がこっちまで伝わってきたわ」
と僕は笑いながら言った。
しかし誰も笑うどころか返事もしない。
――そんなに緊張するもんかぁ――
僕は五人にどんな声を掛ければ良いのか迷っていた。
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