第312話新入部員の演奏その2
「テンポはこんなもんでええか?」
と軽くさわりの部分だけ弾いてみた。
「あ、それで良いです」
と応えて笑った。
「了解」
と言って僕は軽く一呼吸してから鍵盤に指を沈めた。
静かに音楽室にバロックの調べが流れる。
誰もが一度や二度は耳にしたことがある調べだ。
弾きながらこの曲は何度も冴子と宏美の伴奏で弾かされたなぁと思い出していた。
ヴァイオリンの音色がゆったりとした良い感じで入ってきた。
悠一に負けず劣らず良い音色を響かせている。変な溜めは作らない素直な音だ。嫌いではない。
こう続けざまに綺麗な音の粒を堪能できるとは……こんな伴奏なら大歓迎だ。僕はピアノを弾きながら至福の時を感じていた。
この音色は相当弾き込んだ音だな。それともこの曲がよっぽど好きなんだろうか?
どちらにしろ安心して聞いていられる。僕は音の粒の繋がりをいつもピアノを弾く時よりも気をつけながら弾いた。特に左手の手首を柔らかくしならせるように弾いた。
天空から注ぎ落ちる甘露の雫の連なる音の粒。
それを一粒一粒包み込むようなヴァイオリンの音。
バッハはやはり偉大で、グノーは繊細だ。
それにしても今こうやって伴奏しているのが、単なる試し弾きだと忘れてしまいそうになる。
ほんのちょっとどれくらいの腕なのか試しに弾かせているだけなのだが、彼らの技量もさることながら、真剣度合が高すぎて僕までもそれに引き込まれてしまっている。
聞いている他の部員たちもこの二人の演奏に飲まれてしまっているのがよく分かる。
それにしても、彼はよく動く。体全体でリズムを掴むかのようにヴァイオリンが左右に揺れている。
――あんなにクネクネしてちゃんと弾けているのが凄いわ――
優一とは違って落ち着きのない弾き方だったが、音色は安定した美しさを持っていた。
ふと目をやると、冴子の姿が目に入った。
どうやら冴子はこの中務という新入生の事は知っているようだ。驚いた様子も無く満足そうな表情で聞いている。それに比べて瑞穂とシノンの唖然とした顔がおかしくて仕方ない。彼女らと言うか他の上級生達も、この二人の演奏を聞いてそれなりに焦っていることだろう。
中務優宏のヴァイオリンの音色は悠一とは違った艶と強さを持つ良い演奏だった。
この二人は文句なく全国クラスの音を出している。
「ありがとうございました」
と僕に頭を下げてから中務優宏は部員たちの拍手とため息の中、元居た場所に戻って行った。
何故か悠一とハイタッチしていた。満足できた演奏だったのだろう。
残るはあと一人。この二人の後に続くのは、流石に至難の業かもしれないなぁ……これだけの演奏を続けて見せつけられた後に弾くのは、それなりの実力が無いと気分的に辛いと思う。
と思いつつももしかしたら最後の一人も彼らと同じぐらいの演奏を聞かせてくれるのだろうか? と僕は密かに期待もしていた。
「じゃあ、次は……」
と冴子が言いかけると
「はい。 秋島かがりです」
と最後の一人が一歩前に出た。
大人しそうな女の子だった。長い髪がとても清潔そうで清楚な感じがした。
――和樹の好みだな――
と余計などうでも良い事を僕は思っていた、
彼女も
「私も伴奏をお願いしても良いですか?」
と上目遣いに冴子に聞いた。
「どうぞ」
と冴子は微笑んで応えた。
秋島かがりは僕の傍まで来ると小さい声だがはっきりと
「あの……カッチーニなんですけど……」
と遠慮気味に言った。
「やっぱりそう来たか……勿論アヴェマリアやね?」
と僕は聞いた。なんとなくそうなる予感はしていた。
「はい」
と彼女は言って、いたずらが見つかった子供のようにバツの悪そうな笑顔を見せた。
新入生の試し弾きで僕は世界三大アヴェマリアを弾く羽目になった。
――もしかして三人は最初からこれを示し合わせていたのか?――
悠一を見ると目が合った。
その瞬間に彼は目を逸らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます