第311話新入部員の演奏その1

 悠一は前奏を目を閉じて聞いていたが、ゆっくりと見開くと弓を引いた。

伸びのある良い音だ。ゆったりと深い**G線の音色が音楽室に響く。

悠一はちゃんと最初の主題はG線だけで弾いていた。


 それを聞いて瑞穂とシノンが小声で話をしている。

『ウィルヘルミかぁ』

『ちゃんと指示通り弾けているやん……』

『これは巧いなぁ……』

等と言っているのだろう。ヴァイオリンを担当している部員は食い入るように悠一の演奏を見ていた。

これは見た目以上に技術が必要なのだが、悠一は弾き慣れた様子でそれほど苦も無く弾いているように見えた。


 そして二度目の主題。その前にピアノの間奏が入るのだが、思わずリストが顔を出してしまいそうになった。危なかった。相手が悠一だけに気を抜くと伴奏である事を忘れそうになる。


 それはさておき、その二度目の主題では高音での重奏技法が待っている。これも悠一はそれなりに弾きこなす。流石、コンクールを総なめにしてきただけはある。


 良い音だ。ちゃんと正確で綺麗な音の流れだ。音楽室に光の帯が漂っている。そこにピアノの色とりどりの音の粒が絡まっていく。


 久しぶりに聞く悠一の音は、僕が知っている頃よりも進化していた。成長著しい奴だ。

それでも懐かしい感覚が蘇ってきた。彼の伴奏をするのはいつ以来だろうか?


 それにしても僕は中学二年生でヴァイオリンを未練無くやめたはずなのに、ちょっとこの悠一の音色を聞いていて悔しくなった。見上げた音の粒は腹が立つほど綺麗に舞っていた。



 気が付くと本人も充分に満足できただろう余韻を残して悠一の演奏は終わった。

悠一は一礼すると元居た場所に戻って行った。



 戻る前に僕の耳元で

「やっぱり亮にぃの伴奏はええわぁ」

と嬉しそうに小声でひとこと残して行った。


 音楽室はため息が漏れた。

そして『部長の弟、凄い……』と言う声が湧き上がっていた。


「はい。よく分かりました。それでは次に……中務君かな?」

冴子はそんな声を気にするそぶりも見せずに、そそくさと二人目の名前を呼んだ。


「はい。中務優宏です。よろしくお願いします」

と悠一の隣に立っていた生徒が一歩前に出て返事をした。

悠一とひとこと声を交わすと、彼も悠一と同じように僕の傍までやって来て


「僕も伴奏してもらって良いですか?」

と聞いてきた。


「ええで。何弾けばええの?」

こうなれば一人弾くもの二人弾くのも同じだ。断る理由は全くないし、こうなったら断れないだろう。


「グノーのアヴェマリアなんですけど……大丈夫ですか?」

と僕の顔色を窺うように聞いてきた。


「それなら全然大丈夫やけど。しかしなぁ……シューベルトの次はグノーのアヴェマリアかいな? 面白いなぁ」

と僕は感心しながら応じた。


僕の返事を聞いて彼は安心したように笑みを浮かべた。



 悠一の演奏を目の当たりにした後だというのに彼は緊張した様子も見せずに、その表情からはどこか余裕すら感じさせていた。

悠一並に弾ける自信がある? それでこの選曲は彼の洒落っ気か? まあ、そんな事はどうでも良い。


 間違いなく彼は悠一とは仲が良い。この選曲から僕は彼の自信を感じると同時に、悠一の音を何度も聞いてよく知っているという余裕も感じた。

 グノーとは『フランス近代歌曲の父』と呼ばれる作曲家だが、その『グノーのアヴェマリア』と言われる曲は元はバッハの平均律クラヴィーア曲集 第一巻『前奏曲第一番ハ長調』というピアノ曲である。それにグノーが歌詞と旋律をつけたものだ。バッハのハーモニーにグノーのメロディ。これはそう言う曲だ。


 だから僕がこれから弾くのは、これまでさんざん弾いてきたバッハだ。勿論、目を瞑っていても弾ける。

ヴァイオリン的には決して難しい曲ではないが、これを艶のある音色で最後まで弾き切るのはそれなりの腕がいる。そもそもヴァイオリンを経験者が少ない中、こうやって人前で自信をもって弾けるだけでも器楽部では充分おつりがくるというものだ。






**(ヴァイオリンの一番低い音が出る弦)

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