第310話伴奏

「じゃあ、悠一君よろしく」

と瑞穂は悠一を促した。


「はい、ところで曲は何を弾いても良いんですか?」

と悠一は冴子に聞いた。


「ええよ」

と冴子は素っ気なく応えた。とてもつっけんどんな物言いだ。

 いつもは割と仲の良い姉弟で、こんな厳しい接し方をしてはいなかったが部活では別のようだ。これが冴子のけじめなんだろうな。


「じゃあ、ピアノ伴奏をお願いして良いですか?」

 そんな冴子の態度を気にする素振りも全く見せずに悠一は言った。前もって冴子に釘を刺されていたのかもしれない。

そんな事よりも僕は嫌な予感を感じていた……。


「え? ピアノ伴奏?……贅沢な!……まあ、いいでしょう……じゃあ、亮ちゃんお願いできる?」

冴子もこれは予想していなかったようで一瞬戸惑っていたが、気を取り直すと躊躇なく僕を指名した。

この指名は冴子からの信頼の証という事で理解して良いのだろうか? それとも瞬時に悠一の企みに気が付いたというのだろうか? あるいはたまたま僕が目についたからとか……。


「俺?……んじゃあ、弾きますか」


――早速、悠一とやる事になるとは――

 指名された理由はともあれ、嫌な予感は当たるものだ。僕は苦笑いしながらピアノに向かった。


 僕が椅子に座ると悠一が寄ってきた。

楽しそうに笑っている。

「へへへ……」

やっぱり確信犯だ。やはり始めからこれを狙っていたようだ。


「何がへへへや。楽しそうやな」

と僕は返した。

何だか悠一にキッチリと嵌められたような気がしてならない。


「まあね」

と悠一は小声で応えた。


 しかし、こうなったらやるしかない。

「で、何やるんや?」

と僕は聞いた。


「シューベルトのアヴェマリア。伴奏できますよね?」

と弾けて当たり前のような顔で聞いてきた。姉弟そろって嫌味な奴らだ。


「ウィルヘルミか?」

と僕は聞いた。


 元々この曲は歌曲として作曲されたものだ。その後、この名曲は色々な音楽家の手によって編曲がなされた。その中でもアウグスト・ウィルヘルミというドイツのヴァイオリニストがヴァイオリン演奏用に編曲し直したものを僕は告げた。

 彼が通っているヴァイオリン教室では、彼ぐらいのレベルであればこのヴァージョンで弾かせていたはずである。勿論僕も冴子も宏美もこのヴァージョンで練習した。


「あ、よくお分かりで。流石、亮にぃ」

と小声で言って悠一は笑った。


 この自信満々の笑顔を見た瞬間に、さらに難易度の高い『*ハイフェッツか?』と嫌味の一つでも言ってやれば良かったと意地の悪い事を思ったが、そんな事はおくびにも出さずに

「音合わせは?」

と聞いた、

 

 悠一なら『ハイフェッツ』でもそれなりに弾けてしまうかもしれない。それはそれでなんだか僕が引き立て役になったみたいで悔しい。


「大丈夫です。それよりも楽譜は要りますか?」

楽譜まで用意してあったのか……やはり悠一は用意周到に今日のこの時を迎えたようだ。


 それにしても悠一も心得たように敬語で話しかけてくる。これも冴子に前もって注意されていたのだろうか?


「いや、大丈夫」

と言った後に楽譜があるなら見ても良かったなと少しだけ後悔した。

充分に弾ける自信はあったが、確認したいところがない訳でも無かった。


――まあいいか。何とかなるだろう――


 僕は一呼吸入れてから悠一の顔を確認した、

彼はもういつ始めてもらっても大丈夫と言う顔をしていた。


――余裕やな――


 ハイフェッツほどではないにしろ、はっきり言ってこの編曲は簡単ではない。それなりに技巧を必要とする編曲になっている。

 悠一は『シューベルトのアヴェマリア』と呼んだが、正確には『エレンの歌 第三番』である。

歌詞の始まりが『アヴェマリア』と出てくるのでそう呼ばれるようになっただけである。


 僕はおもむろに前奏を奏でた。案外ここの音を揃え損ねると、とても下品な音になる。それだけは避けたかった。もっともそんなミスは絶対に犯さない自信はあったが……等と余計な事は考えない様に弾こう。




*(ヤッシャ・ハイフェッツ。旧ソ連時代の世界的バイオリニスト。ヴァイオリニストの王と呼ばれたとても巧い人。奏者にも依るがこのヴァージョンが一番難しい演奏と言われている。他のアヴェマリアの楽譜ではパールマン編も結構有名)

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