第307話 弟

「え? 俺?」

と思わず言葉に詰まってしまった。

僕の家には鈴原家の様な帝王学など必要ないし、そもそも母一人子一人の母子家庭にそんなものは存在しない。


「そうや。亮にぃはお母さんの店、継がへんの?」

と意外そうな顔で悠一は聞いてきた。


「俺が?」


「亮にぃ以外に誰が継ぐんや?」


「まあなぁ……そういわれてみればそうなんやけどなぁ……」

悠一に言われて初めて気が付いた。

僕にも継ごうと思えば継げるものがあった事を。


 オフクロが商売を始めたのはオヤジと離婚して間がない頃だった。商売を始めた頃はインティリアデザイン事務所兼西洋アンティーク家具を扱う小さな店だった。


 それが冴子のオヤジのつてでスズハラコンツェルンのホテルやグループ企業に出入りするようになってから規模が大きくなり、人を何人か雇うようになった。


 今では海外までアンティーク家具を買い付けに行くようになり、個人商店から株式会社へと法人化していた。オフクロからはそう聞いていた。

そう、オフクロは小さいながらも企業の社長だった。


 僕は『ピアニストになりたい』と気楽に言っていたが、将来あの会社はどうするんだろうか? 誰かオフクロの部下にでも社長の席を譲るのだろうか? 今の今までそんな事を深く考えた事は一度も無かった。

第一、オフクロに『将来この会社を継げ』なんて事は一度も言われたことが無い。


「まあ、誰かが代わりに社長するんとちゃうか?」

と僕は言葉を濁した。今まで全く考えた事も無い話を急にここで聞かれても答えようが無かった。


 それにしても悠一にとっては親の会社は継ぐものだというのが当たり前の常識なんだろう。そう言う風に幼い時から叩き込まれてきたんだなと、改めて住む世界が違う事を認識した。


「ふうん。そうなんや……あ、それよりも亮にぃ、またヴァイオリン弾いとんやって?」

と悠一は聞いてきた。やはり彼にとっては僕や自分の将来よりも、今は器楽部の方に興味があるみたいだ。そして何故か嬉しそうに聞いてきた。


「ああ、そうやけど……冴子に聞いたんか?」

僕はまだ頭の片隅にオフクロの会社の事が残っていたが、今はそれを考えたところで仕方がない。どちらかと言えば話題が変わってほっとしていた。


「うん、うん。そうやねん。亮にぃは器用やからなぁ……ヴァイオリンももっと真剣にやったらええのにって、いつも思っとってん」


「そうかぁ? お前にそう言われると自信がつくなぁ……まあ、この頃、ヴァイオリンを弾く機会が多いから結構真面目に練習しとうで」

まさか悠一にヴァイオリンを褒められるとは思っていなかったが、確かにこの頃ヴァイオリンを弾くのも楽しくなってきてはいた。


 昔のようにヴァイオリンケースを持って歩くのも、それほど抵抗が無くなった。まあ、全くない訳でもないが、昔ほどではなくなったという程度ではあるが。


「ホンマに? 俺亮にぃと一緒にまたヴァイオリン弾くの楽しみやってん」

と言って悠一は笑った。

そう言えば僕がヴァイオリンを辞めてからは、一度も彼と一緒に弾いていなかった。


「そうか。それならこれからは一緒に演奏できるな」


「うん。後ピアノも弾いてな。亮にぃと一緒にやんのん楽しみやねん」


「ホンマかいな? まあ、機会があったらな」

と僕は笑って応えた。


「ホンマやで。亮にぃはいつも姉ちゃんや宏ちゃんばっかり相手していたからなぁ……」

と少し悔しそうな口調で悠一は言った。

そう言う事ならもう少し一緒に演奏してやれば良かったなと僕は少しだけ後悔した。


 悠一とそんな話をしていると扉が開いて冴子、瑞穂、宏美と美乃梨が騒がしく入ってきた。

目ざとく悠一の姿を見つけた冴子は

「悠ちゃん、もう来たん? 早かったなぁ」

と声を掛けた。


「うん。今、亮にぃと話しとってん」


「ふうん。そうかぁ。あ、瑞穂、これが私の弟やねん」

と思い出したように瑞穂に紹介した。


「ああ、そうなんやぁ。やっぱり姉弟やね。似てるわ」

と瑞穂は二人の顔を何度も見比べながら言った。


「そうかなぁ……よく言われるけど」

と冴子はあまり納得はしていないようだったが、何気ない仕草とか表情とかふと『似ているな』と思う時が僕にもある。


「うん。よう似てるわ……弟君よろしくね」

と瑞穂は悠一に声を掛けた。


「あ、よろしくお願いします。鈴原悠一です」

と大きな声で挨拶を返していた。

きっと、昨日の夜冴子に『ちゃんと挨拶しろ』と釘を刺されたに違いない。


「美乃梨は会った事あるんや?」

と僕が聞くと

「うん。何度か冴子の家で会った事がある」

と応えた。


「そっかぁ……」

 本当に美乃梨は適応力が高いと言うかコミュニケーション力が高いと言うか、冴子とはもう普通に家を行き来するような仲になっていたようだ。本当に羨ましいぐらいの図太さだ。

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