第295話 見えた風景
僕が鍵盤に指をおいた瞬間に、オヤジの子供時代の姿が見えた。
このピアノをオヤジは毎日弾いていた。毎日毎日……楽しそうに練習している姿が……走馬灯を見るように鮮やかに見えた。
その瞬間、次の展開が読めてしまったので、僕は慌ててピアノから指を離したが遅かった。
最後に脳裏に飛び込んできた情景は、高校生のオヤジが寂しそうな顔で鍵盤を見つめながら蓋を閉じる姿だった。何度見ても胸が締め付けられるように辛くなる情景だ。
間違いなく美乃梨もこの情景が見えたはずだ。お嬢に会ってしまった美乃梨には、僕と同じ景色が見えてもおかしくない。その上、美乃梨はお嬢が認めるほどその力が強い。
オヤジの前で美乃梨に『何が見えたのか』を確認する事は流石に憚(はばか)れたが、確認するまでも無かった。
美乃梨の表情は僕の想像が間違っていない事を物語っていた。
それよりも、余計な事を聞いてしまった事を後悔した。何もこんなところで聞くことは無かったのに……。
同じ事を美乃梨も思っていたようだが
「切ない気持ちになってんけど……なんだか私ももう一度弾きたくなってん……」
と小さい声で僕に言った。その気持ちはよく分かる。
あの夏の日、美乃梨に聞かれたオヤジが言葉を濁して誤魔化したピアノを辞めた理由を、美乃梨は知ってしまった。いや、理由は分からなかったかもしれない。それでも辛い気持ちでオヤジがピアノを諦めた事は充分に理解できただろう。
それを知った上で美乃梨はピアノを弾きたいと言ってきた。いや、知ったからこそ弾きたくなったのかもしれない。
それはそれとして、僕の隣には当の本人のオヤジが座っている。高校生ではなく見る影もなく中年のオッサンに成れ果ててしまってはいるが、間違いなく美乃梨に切ない思いをさせた本人だ。
僕は恐る恐る僕はオヤジに目をやった。
オヤジはいつものようにグラスを持って安藤さん相手に飲んでいた。
――もしかしたら今の会話は聞かれていないかも――
と思ったその瞬間
「なあ亮平……」
とオヤジは僕達を見もしないで聞いてきた。
「え? なに?」
僕は焦りながらも応えた。少し声が裏返った。
「お前さぁ、今日……宏美ちゃんに会ったんかぁ?」
とオヤジは唐突に宏美の事を聞いてきた。
「え? 学校で会ったけど……」
予想外のオヤジの言葉に僕は少し動揺しながら応えた。
「ふ~ん。そうかぁ……帰って来てから宏美ちゃんに連絡したかぁ?」
「いや、してないけど……なんで?」
――オヤジは何を言いたいんだろう? 何故急に宏美の事を?――
僕にはオヤジの真意がつかみ切れていなかった。
その時、背中越しに美乃梨の『あぁ……』という声が聞こえた。
――もしかして宏美に何かあったのか?――
と不安になった。
「お前さあ、今日が何の日か知っとぉ?」
とオヤジは意味ありげな表情で僕に聞いた。
「え? 今日?……なんかあったけ?」
と僕が聞き返すと
「はぁ……人として一人の男として大事な物が欠落しているかもしれんなぁ……」
とオヤジがため息交じりに首を振った。
「だから、なんなん?」
と僕が更に聞き返した瞬間
「はぁ、宏美ちゃんも可愛そうやなぁ……」
と美乃梨もため息交じりにあきれ果てたように言った。
「何が?」
「亮ちゃんはホンマに分かってないんか?」
と美乃梨は僕の顔を覗き込むように顔を近づけて言った。
カウンターの中では安藤さんも渋い顔をして何か考え込んでいる風だった。
本当に宏美に何かあったのか? と真剣に心配しかけた刹那
「だから、何が……あ!!!」
と言った瞬間に僕も思い出した。
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