第296話 愚か者
そうだった! 今日はヴァレンタインデーやった。
それをたった今思い出した。ついでに宏美にチョコレートをまだ貰っていない事にも気が付いた。
――こんな大事な事を今の今まで忘れているなんて!!――
痛恨のミスだ。
「思い出したようやな。早う宏美ちゃんに電話せえへんと見捨てられるで……」
とオヤジは笑いをこらえながら言った。本当ならここで爆笑したいところなんだが、あまりにも間抜け過ぎてそれさえも憚られるといった感じが伝わってくる。
我ながら相当情けない。
僕は慌ててもう一度携帯電話の着信履歴を見直した。
そこには美乃梨の名前に挟まれて宏美の名前があった。完全に見落としていた。
僕は慌てて宏美の携帯を鳴らした。宏美はすぐに出てくれた。
僕は咄嗟に
「ごめん連絡が遅れて……」
と謝った。ここでヴァレンタインデーであった事を忘れていたなんて悟られてはならない。それこそ身の破滅だ。一言一句に緊張感が走る。
「うん。今日は忙しかったん?」
と宏美が聞いてきた。
――怒っていない!?――
僕は救われたような気持になって
「うん。レッスンの後に家に帰ったらオヤジが買ってくれたピアノが届いてて、今オヤジと一緒に安藤さんの店におるねん……だから連絡が遅れてん……」
と言い訳がましく話した。
隣でで美乃梨が笑いをこらえているのがよく分かった。
横目で美乃梨を見ると声を出さずに僕に言った。
「う・そ・つ・き」
と言っているのはすぐに分かった。
「え~。お父さんがグランドピアノを買ってくれたんやぁ。凄いやん。今度聞かせてね」
と宏美も一緒に喜んでくれているようだった。
「うん。もちろん。で、さあ……」
ここでどうやってヴァレンタインチョコの話題を切り出そうかと逡巡していたら
「もしかして……今日がヴァレンタインデーって忘れてたでしょ?」
と宏美から先に言われた。
一瞬返事に困った。間が空いた。
「ごめん。忘れてました……」
と正直に白状した。
こういう時の余計な言い訳とその場しのぎの嘘は更に墓穴を掘る事になる。僕はこれ以上の無駄な抵抗……いや足掻(あが)きは止めた。
「今日はずっとピアノ漬けだったのと、家に帰ったらグランドピアノが届いてて、今の今まで忘れていました。ごめんなさい」
と素直に謝った。背筋に冷たいものが走った。
宏美はいつも通りの口調でひとこと
「今から取りに来る?」
と聞いてくれた。
――怒っとらん?――
「うん。今からすぐに行くわ」
と言いながらもいつもと変わらない口調の宏美に、少し不気味さを感じていたのも事実だった。
「じゃあ、家の前で待っているね」
と宏美は笑いながら応えた。
僕は感じていた不安を押し殺して
「うん。すぐに行く」
と言って携帯電話を切った。
と同時に
「父さん、俺、帰るわ」
と言って立ち上がった。
オヤジは
「はは、早よ行ったれ」
と言った後思いっきり笑った。
「うん……ところで、父さん。あのピアノはヴァレンタインチョコの代わりか? ヴァレンタインに指摘されただけに……」
「アホか。そんな事ある訳ないやろ! なんで息子に俺がヴァレンタインピアノをあげなならんねん。くだらん事を言うとらんとさっさと行け!」
と呆れたように言い放った。
「そうやんなぁ」
その言葉を聞いて僕も安心した。我ながら間抜けな質問をした。完全に気が動転している。
美乃梨にも
「アホな事言うとらんと、フラれんように頑張れ~!!」
と楽しそうに言われた。
悔しいが言い返す言葉が無かった。
安藤さんは何も言わなかったが、笑いながら何度も頷いていた。肩が震えていた。
兎に角、僕は皆の嘲笑(えがお)に見送られて宏美の家に向かった。
――ああ、格好悪い……そう言えば今日は何度もヴァレンタインって連呼していたのになぁ……――
まあ、どっちにしろ17歳のヴァレンタインデーは、ちょっとビターな思い出ができてしまった事に変わりはない。
だからと言って、渋い大人の階段をまた一歩登った訳ではないようだ……。
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