第67話 セピア色の思い出
「オリジナル・シンガポール スリングでええんやな?」
安藤さんが仁美さんに確認するように聞きながらグラスを静かに置いた。
「うん。それでいいの。それが飲みたかったから」
コースターの上にマラスキーノ・チェリーに飾られたシンガポールスリングを仁美さんはしばらく見つめてから手に取るとストローで軽く飲んだ。
「美味しい……」
仁美さんはストローから口を離してグラスをそっと置いてそう言った。
またもや大人の空気が流れた。
「綺麗なカクテル」
宏美は始めて見たカクテルを興味深そうに見ていた。
「うん。昔……よく安ちゃんにこのカクテルを作って貰ったわ。だから懐かしい味がするわ」
仁美さんは昔を思い出す様に天井を見上げ、そして安藤さんの顔を見た。
安藤さんは
「それは良かった」
とひとことだけ言った。
「飲んでみる?」
仁美さんは宏美にグラスを勧めた。
「いえ、良いです」
と慌てて手を振り宏美は答えていた。
「未成年に酒を飲ますなよ」
安藤さんが煙草をポケットから取り出して言った。
「そうやったわ。忘れてた」
と仁美さんはそう言いながら笑った。
僕はその安藤さんと仁美さんのやり取りを見て、この二人にはこのカクテルにまつわる思い出があるんだろうなぁっと思っていた。
それはオヤジとオフクロも知っているかもしれない事なんだろう。彼らの若い頃の思い出という残照を少し浴びたような気がした。
今ここに居る大人四人はその残照の中に浸っているように見えた。そう、セピア色の世界で四人の大人たちの影を僕と宏美は見ていた。
それはこの人達にとってもう取り返せない物なのかもしれない、いやまだ取り返せるものかもしれない……やり直せるかもしれない……思い出というノスタルジーに引き戻された大人達がそれから逃げ出そうとあがいているように見えた。ただその世界に子供の僕が口を挟むべきではないというのだけは判った。
「あれから二十六年かぁ……」
仁美さんはシンガポールスリングのグラスを見つめて呟いた。まるであがくのを諦めたように。
「やっぱり思い出していたんや」
安藤さんは煙草の煙を天井に向けて吹きだしてから仁美さんを見た。
「うん。もうそんな時期やん」
「せやったな」
大人たちの無駄なあがきはすぐに終焉を迎えたようだった。
仁美さんは振り返り入り口の扉越しに外を見て呟いた。
「クリスマスの雪は嫌い」
「え? 雪降っとう?」
仁美さんの台詞にみんな振り返って窓を見た。
「降ってへん」
そう言うと仁美さんはグラスに口を付けた。今度はストローを使わずに飲んだ。
「仕事が面白かった訳じゃないんよねえ……いや、確かに面白かったけど、仕事に没頭ている時は忘れられるからね」
「克哉か」
「うん」
と仁美さんは寂しそうに頷いた。
「まだ、引きずっとったんか……」
今まで黙って腕を組んで聞いていたオヤジが口を開いた。
「ううん。もうそんな事は無いよ。それは昔のはなし」
と仁美さんは首を軽く横に振って否定した。
「ホンマかぁ?」
「うん。それはホンマ。いつまでもそれはないわ」
「そうやな」
二人のやり取りを聞いて安藤さんが安心したように頷いた。
「でも、二十代まではきつかったなぁ……」
そう言うと仁美さんは何かが零れない様に天井を見上げて黙った。
僕と宏美は傍観者以外の何者にもなれなかった。本当にそれしかなかった。
「克哉」とはこの四人の共通の友人の事だというのは薄々分かったが、それ以上は全く分からなかった。
そんな気持ちを察してくれたのか仁美さんが僕と宏美に簡潔に教えてくれた。
「実はね。高校時代に仲の良かった友達が居たんだけど、雪の降るクリスマスに単車で事故って死んじゃったの」
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