第66話 バーテンダーが二人

「ああ。学生時代からバイトでバーテンダーしてたもんな。慣れたもんや」

安藤さんはオヤジの顔を横目で見ながらそう言った。


「まあな。昔とったなんちゃらっていう奴や」

そう言いながらオヤジは新しく敷いたコースターの上にグラスを優しく置いた。


 小指をコースターとグラスの間に軽く挟んでからすっと小指を抜いて、グラスを静かにコースターの上に着地させた。如何にも慣れた手つきの所作だった。


 僕は瞳はオヤジの指は細くて綺麗な指を凝視していた。それはピアニストだった男の指だ。

神の聴く音を奏でていた指だ。そしてその音をもう二度と奏でることのない指でもある。


 オフクロはおかれたグラスに目をやりながら

「ありがとう」

と言った。


 僕はそのオフクロの『ありがとう』を聞いて何故か「あぁ、この二人はもう他人なんだな」と感じた。

よそよそしい空気は含んではいなかったが、そこに僅かな距離感を感じてしまう『ありがとう』だった。


 オフクロはグラスを右手で持ち上げると、片手はグラスの底に添えて日本茶を飲むようにブランデーを飲んだ。

そしてグラスをゆっくりとコースタに置くと軽く微笑んで

「美味しゅうございます」

と言って頭を下げた。


 間違いなくこれはオフクロが美味しいお酒を飲んだ時の表情であり台詞だった。

長年、馴染み親しんだあの表情。家のリビングでマイセンのカップに焼酎を注いで飲んでいる時と同じ、酒飲みの恍惚とした表情だった。


 既に家で出来上がっている状態でここに来たのは間違いない。そう、オフクロは既に酔っぱらっていた。

それも相当。これが分かるのはここでは僕だけだ……いや、オヤジも分かっているかもしれない。元夫婦だけに……。


「それは宜しゅうございました」

オヤジは慇懃無礼に答えていた。


「飲まれてある事の恍惚と不安と二つ我に在りって感じやな」

オヤジは唐突に哲学的な事を言った。


「お前はヴェルレーヌか?」

と安藤さんが突っ込んだ。どうやらオヤジの今の台詞は詩か何かの一節らしい。


「よう覚えとんなぁ」

オヤジは嬉しそうに笑いながら自分のグラスのCCを飲んだ。

オフクロは二人のやり取りを黙って聞いていた。


「それはそうとユノはカルヴァドスが好きやったんやぁ?」

安藤さんは初めてそれに気が付いたようだ。


「うん。アップルブランデーの香りが大好きなん」

とオフクロは肘をカウンターにつけたまま、グラスを目の高さまで持ち上げて言った。


「なるほどね。ブラー グランソラージュは香りが良いからな」

安藤さんは横目でオヤジを見ながらオフクロに話しかけていた。

「ここでその飲み方するのは初めてやんなぁ?」


「うん。今、急にこれが飲みたくなったん」


 このやり取りを黙って見ていた仁美さんが安藤さんに

「シンガポールスリング作れる?」

と聞いた。


「え? 作れるけど……」

と安藤さんは驚いたように言い淀んだ。


「じゃあ、お願い」

仁美さんは安藤さんの動揺には全く気が付かないかの如く注文した。


 一瞬の間をおいて

「……分かった……」

と安藤さんは応えると、そのままレモンをカウンター下の冷蔵庫から取り出した。

そしてレモンを半分に切ってフレッシュレモンジュースを絞り出した。


――何かこのカクテルにいわくでもあるのだろうか?――


と僕はオヤジとオフクロを見たが、二人とも無表情で黙ったままだった。


 安藤さんは冷凍庫から白く冷えたビーフィーターのボトルを取り出すと、チェリーブランデーと砂糖とシェーカーに入れた後それを注ぎ入れた。手慣れた感じだった。

いつもビールと水割りぐらいしか出ないからここにはカクテルなんか存在しないと思いそうになっていたが、それは間違いだった。


安藤さんは体をひねると横を向いてシェーカーを振り出した。


 僕はここでシャーカーを振っている安藤さんを見たのは初めてかもしれない。

まるでフラメンコダンサーのような美しいリズム感だった。右肩からシェーカに繋がるラインが綺麗に連動してしなやかに動いていた。

 シェーカーとはこれ程優雅に振る事が出来るものなのだろうか? なんて思ってしまう程洗練された動きだった。


やはり安藤さんはバーテンダーだ。

しかし何故かその表情は硬く感じられてしまった。

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