第209話 違和感
暫くして冴子の演奏が聞こえてきた。
微かに聞こえるピアノの音が会場を満たしていく。静かな湖面に広がっていく波紋のようにゆっくりとその音の粒は客席を包み込んでいくのが分かった。
曲はショパンの『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22』だった。
僕は目を閉じて両膝に肘を乗せて前かがみの姿勢で、全神経を耳に集中させて冴子の演奏を聞いていた。
冴子の紡ぎだす音の粒は聴衆を魅了していった。自信に満ちた音だった。
観客の期待を裏切らない良い音だ。
しかし……僕は気が付いた。いや、この場に宏美が居ても気が付いたと思う。それは今聞こえている冴子のピアノの音に対する違和感。コンクールの予選から気になっていた、喉の奥に刺さった小骨の様な違和感。
それが今、何なのかがはっきりと判った。
――これは冴子の音ではない――
今までこんな弾き方を彼女はしていなかった。
そうだ、僕がこのコンクールで地区予選から感じていた違和感の原因は、冴子の演奏が僕の知っているいつもの演奏とどこか違って聞こえていたからだ。そしてその音がどこかで聞いた事がある音の粒のような気がしてならなかった。
実は何となくは気が付いてはいたが、僕は敢えてその想像を打ち消していた。
しかし今は違う。今ならはっきりと言える。
――これはオヤジの音だ――
そうだこれは間違いなくこれはオヤジの音だ。僕が去年の夏にお嬢と出会ってから散々聞こえるようになったあのオヤジのピアノの音だ。否定したくてもできないほどはっきりと分かる。
――何故、冴子がこの音を出せる? 何故この演奏ができる?――
誰に教わった? 伊能先生か? あの先生がこのタッチを教える訳がない。
第一これはコンクールで弾く音ではない。そうだ、こんなに情感がこもった音の粒はコンクールで弾く音ではない。この音を貫くのであればそれに見合う技術で審査員をねじ伏せなければならない。
しかし冴子はそれを選んだ。そのためにオヤジに個人レッスンまでを受けていたか? そんな事があり得るのか? でも今聞こえるこの音の粒が、それがあり得る事だと告げていた。
僕は瞬時に全てを悟った。
この数か月、冴子はオヤジから個人レッスンを受けていたのに違いない。
僕と冴子が伊能先生の教室で連弾した時の情景が浮かんできた。
あの時「わがまま言ってごめんなさい」と冴子は先生に謝っていた。
その時は冴子がピアノからヴァイオリンに転向した事に対して謝っているのかとばかり思っていたのだが違ったようだ。
伊能先生ではなくオヤジにレッスンを受ける事への謝罪だったのだろう。
あの日、僕と会う前に『最後のコンクールは僕のオヤジのレッスンを受ける』という事を報告していたのだろう。
なぜ黙っていた? 冴子もだがオヤジも何故教えてくれなかった?
僕は居ても立ってもいられなくなって、ふらふらと舞台の袖まで歩きステージの冴子を睨むように凝視した。
背中越しに冴子の口元が軽く緩んだのが分かった。いや、そんな感じが彼女の背中からひしひしと伝わってきた。
――やっと気が付いたか? ざまあみろ!――
と冴子は笑っていたに違いない。誰も気が付かない微かな笑みを浮かべて。
僕は悟った。冴子とオヤジは二人で示し合わせてこの曲を練習してきたに違いない。
――あのクソじじい!!――
これはオヤジが爺さんにしてやられるといつも言っていた台詞だが、まさかこの場面で僕が呟く事になるとは思わなかった。
それも冴子の演奏を聞きながらとは……。
僕には何もピアノを教えてくれなかったくせに……だから、オヤジはこのコンクールを見に来ていたのか!
オヤジが遠路はるばる東京の会場まで来た意味が分かった。今頃、客席で笑いを堪えるのに必死なんだろう。
多分、今の僕はオヤジが予想した通りの間抜け面を晒しているだろう。ああ、腹が立つ。忌々しい。
冴子はこれまでの自分の音を全て捨ててまで、このコンクールに臨んでいる。
これが最後のピアノコンクールだというのに、全てを投げ捨てて一から自分の音を作り変えてきた。
――どんな嫌がらせだ!?――
嫌がらせの音にしてはとても魅力的な音の粒が会場を満たしている。
この舞台袖にもそれは届いていた。
悔しいが冴子はオヤジの音を自分のモノにしていた。冴子の音はコンクールさえ、もう眼中には無い旋律を奏でていた。一音一音、音の粒が全て愛おしくなるような音の連なり。悔しいが僕の心の中に染み入るような響きだった。
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