第208話 会場へ
翌朝、典子さんが作ってくれた朝食をとった後、軽く先生の前でピアノを弾いてから僕は先生と一緒に会場に向かった。玄関を出る時に先生は
「朝から良い感じで音が出ていたよ。今日は大丈夫だな」
とひと言励ましてくれた。
会場に到着したのは昼前だった。先生とはロビーで別れて僕は控室に向かった。
冴子は既に控室で譜読み中だった。
「おはよう。早いな」
そう言って僕は冴子の肩を軽く叩いた。
「あ、亮ちゃん。おはよう」
冴子は顔を上げて僕の顔を見た。頬にほんのりと赤みがさしていた。彼女の緊張感が僕にも伝わってきた。
敢えてその事には触れずに
「お父さんと一緒に来たん?」
と僕は聞いた。
「うん。そう。あ、そう言えばあんたのお父さんも来とうはずやで」
「え? 嘘? そんな事言ってなかったのに……」
「ここに来る前に、お父さんが携帯であんたのお父さんとそんな話をしとったで」
冴子は表情も変えずにそう言った。
「そうかぁ。 父さんも見に来てくれとるんやぁ」
僕は冴子の話を聞いて嬉しかった。僕が中学生の時に出たコンクールの時も来てくれていたから今回も来てくれるのではないかとは想像していたが、冴子の口からそれを聞くと思った以上に喜んでいる自分に少し驚いてもいた。
「わざわざ東京まで来んでも良いのに……」
と敢えて僕は自分の感情を抑えるように素っ気なく言った。
「ふん。多分ね。ちゃんと来るって聞いた訳やないからね」
冴子は僕の顔を横目で見ながらぶっきら棒にそう答えた。
「そっかぁ」
そう言いながら僕はオヤジは間違いなく見に来ると確信していた。
「ところで、お前は何番目なん?」
「うちは最後から三番目。亮ちゃんは?」
「何やそんなに変わらんな……俺は最後」
「え? トリなんや?」
「そうや」
「それって緊張せぇへん?」
「いや、そうでもないけどなぁ……お前もそんなに変わらんやん」
「いや、『トリ』と『最後の方』とでは全然ちゃうわ」
「そうかぁ?」
「当たり前やんかぁ」
「なんでぇな。出番を待つのダルいやん……それまでヒマやなぁとかは思うのは一緒やろ? 大して変わらんやん」
「全然ちやうわ。そんなん言うのはあんただけや。ほんまにあんたは緊張感のない奴やな」
と冴子はいつものように吐き捨てるように言ったが、実際にそうだったので何も言えずにその場しのぎの愛想笑いでごまかした。
「何をへらへら笑っとんや」
と冴子は更に見下すように言った。どうやら冴子の琴線にいたく触れたようだった。いや、この場合は逆鱗に触れたが正解か? どうでも良い事だけど。
「へらへらしてへんわ」
別に緊張していない訳ではなかったが、今更緊張しても仕方ないよなぁと腹を括ったらそれ以上余計な緊張感は無くなっていた。冴子にしてみればその態度自体が気に食わないのだろうけど。
「ふん! あんたにこんな話をした私がバカやったわ」
と鼻を鳴らして冴子は再び楽譜に目を落とした。
今は緊張より憤りの方が優っているようだったが、冴子が感じていた緊張感は僕にも理解できてはいた。
最後のコンクールだというのに僕達はいつもと同じノリだったが、それでも冴子の緊張具合はいつもより僕には強く伝わってきていた。
『いつも通り弾けば良いんだよ』
と声を掛けたくなったが、そんな事は言われなくても冴子は重々承知していると思い直して黙って僕は冴子の隣の椅子に座った。
しばらくして冴子の名前が呼ばれた。
黙って冴子は立ち上がった。そして係員の顔を確認してから「はい」と応えた。
見上げる僕に視線を落とすと
「じゃあ、行ってくる」
とひと言を残して冴子は舞台そでに向かったが、直ぐに立ち止まり振り返った。
僕の顔をじっと見つめて何かを言いかけたが、思い直したように
「じゃあ」
とだけ言って冴子は舞台そでに歩いて行った。
「何だったんだ?」
と気にはなったが、僕は大人しく控室で自分の名前が呼ばれるのを待つことにした。
ほどなくして、冴子の演奏が始まる前に僕の名前が呼ばれた。
僕は立ち上がって舞台袖に向かった。そして冴子と同じようにそこで出番を待った。
舞台袖にはすでに四名のコンテスタントが自分の出番を待っていた。
冴子は目を閉じて椅子に座っていた。指が膝の上で微かに跳ねていた。どうやら彼女はイメージトレーニングで忙しいらしい。僕に気が付かつかずに……というか気づいたところで同じ事だったろうけど……一心不乱に指を動かしていた。
神経質な奴が隣に座っていたらイラつくレベルの動きだった。
僕はその様子を見ながら黙って椅子に腰かけた。
僕と冴子の間に座る女性と目があった。軽く会釈をされたので僕も軽く頭を下げた。
どうやら彼女は神経質では無いようだ。
僕が勝手にホッとしている間に、冴子の名前が呼ばれた。
小さい声で「はい」と返事をして冴子は立ち上がった。
冴子は横目で僕を見た。視線が重なった。冴子は黙って頷くとステージに向かって歩き出した。
僕はその姿が舞台袖のカーテンで見えなくなるまで彼女を目で追った。
――こんなに緊張している冴子も珍しいな――
やはり最後のコンクールともなると、流石の冴子も緊張を隠せないのかもしれない。
もう冴子の姿は見えないが、彼女の緊張感をそう感じていた。
今冴子がピアノの前で指を軽く伸ばしながら鍵盤を黙って見つめている姿が目に浮かぶ。
何度か軽い深呼吸もしているだろう。
この静かな空白の時間に、僕は彼女の緊張感と客席の期待感とのせめぎ合いを感じていた。
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