第210話 亮平の焦り
これを聞いて僕はどんな演奏をすればいいのだ? 軽く頭の中が混乱している。いや思考が止まっている。
いつものように正確無比な譜面通りの演奏か? これなら自信がある。
しかしそんな演奏をした日には冴子になんて言われるか? それよりもオヤジと二人して
「守りに入ったか!?」
なんて意味不明な蔑みを受けかねない。
確かにそれは芸が無さすぎるし、二人の嘲笑する姿がありありと目に浮かぶ。
僕も今更そんな演奏をする気はさらさらない。
だからと言ってオヤジの演奏をそのままやるのはもっと芸が無い。
これもそれこそ二番煎じだ。
冴子の演奏が終わったら、間に一人だけ挟んで僕の番だ。
そんなすぐに同じような演奏をしたら、間違いなく同じ系統の音だと思われてしまう。
それも腹立たしい。
僕には今本来この会場で鳴るべき音、鳴らすべき音の粒は聞こえる。今まで僕はそれを忠実に再現しようと弾いていた。この頃は場所によってわざと弾き方を変える事さえもできるようにもなってきた。しかしそんな弾き方を、この会場でしたところで冴子の二番煎じにしか見えないという事は弾かなくたって分かる。
そもそもそれらの音は厳密に言うと僕の音ではない。美しい音だが言ってしまえばコピーだ。だからそれを弾いた時に僕はいつも音のどこかに、微かなよそよそしさを感じていた。
僕の音ではない。どちらかと言えばオヤジの音に近い。そして物まね特有にの嘘くささみたいなものを僕は感じていた。まるで他人のふんどしで相撲を取っているような居心地の悪さを心のどこかで感じていた。
そう、僕はあとなにか少しだけ物足りなさを感じていた。
――この音ではオヤジの音の物まねだ――
という思いが払しょくできないでいた。
だから今ここで弾かねばならないのは僕の音だ。それだけは間違いない。
そう僕だけのタッチの音の粒。自分だけの音の繋がり。
そう思って聞くと冴子の音は確かにオヤジの音の粒に近いが、それではない。
冴子の音が良くも悪くも残っている。それは冴子の個性だと言えないくも無いが、まだ完全に自分のものにはなっていない音の粒だった。
冴子と長年一緒に居た僕だから判る音の違いかもしれない。明らかに冴子もまだそこまで自分のものにしきれていない音の揺らぎがあった。
それでも冴子の演奏を聞きながら僕は焦っていた。
そんな揺らぎを差し引いても彼女の演奏は僕の魂を揺さぶる。
冴子の演奏を聞くまでは、いつものように一音一音を大事に弾けば良いみたいな気楽な発想で居たのが、あと十数分で自分の音を絞り出さねばならなくなった。
――あれ? 僕はいつも何を考えて弾いていたっけ? ――
ここに来て、そもそも僕はいつもどんな風にピアノを弾いていたのか? それさえも分からなくなってきてしまっていた。
――ダメだ! 考え過ぎだ! ――
焦りは焦りを生む。
だが冴子のピアノの音は聞こえている。
冴子の演奏は更に凄みを増してきた。ファンファーレからの音の粒は怒涛の良な勢いでやってきた。
まさに鬼気迫る音の粒だった。
冴子の弾くピアノの音の粒が跳ねている。
まるで僕を急かす様に目の前を飛び跳ねている。
なのに冴子の肩は軽やかに音を奏でている。全く力みが無い。
――演奏を楽しんでやがる。忌々しい――
冴子は完全にコンクールだという事を度外視しているようだ。
――これっていつもの俺か……冴子はいつもこんな思いをしながら俺の演奏を聞いていたのか?――
僕はちょっと腹立たしかった。
こんな嫌がらせのような演奏をした冴子にもそれを仕組んだオヤジにも、そしてなによりもここに来るまで何も考えていなかった自分自身に憤りを感じていた。
――僕が逆の立場ならこれぐらいの事は平気でやっただろう――
冴子がいけずなお嬢様である事を僕は忘れていた。
――ふん! 身体中に乳酸が溜まれば良いのに……疲れ果ててしまえ――
そんな不埒な事も僕は考えていた。
しかし冴子には悔しいほど力みは無い。
今この会場でオヤジと鈴原さんは一緒に冴子の演奏を聞いているんだろう。
どうせオヤジの事だ、にやけながら聞いているに違いない。
鈴原さんは驚いているんじゃないのかな?
自分の娘の奏でるピアノ音が横に座っている親友の弾くピアノの音とそっくりである事は、日頃、娘と一緒に居ない父親だとしても気が付いているだろう。
「なんや? お前の音とそっくりやんか?」
「良く分かったな」
「そりゃ分かるやろう。高校時代にどれだけ聞いてきたと思ってんねん」
「案外、記憶力ええな」
等と小声で話しているに違いない。
「さて亮平はどうする?」
なんて楽しんでいるんだろう……悪趣味なオヤジだ。
しかし、本当にどうするよ俺?
このままではオヤジと冴子の思うつぼだわ。
半端でない詰んだ感が僕を包む。
彼女の最後のピアノ演奏は僕を容赦なく追い込んでいく。
――これがコンクールで戦うという事か!?――
コンクールでこんな思いをしたのは初めてだった。この気持ちをどう処理していいのかも分からなかった。
冴子の腕が高く上がった。余韻が会場に響き渡る。最後の一音まで力を抜かずに冴子は弾き切った。
彼女のコンクールが今終わった。もう二度とコンクールのステージで鍵盤の上に指を置くことはないだろう。
――なんちゅう演奏をするんや――
全てを解き放って放心状態にしか見えない冴子をしり目に、僕は舞台袖から離れてさっきまで座っていた椅子に腰を下ろした。
会場からは盛大な拍手が聞こえる。観客は腹立たしいぐらいに素直で正直だ。
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