第101話 アヴェマリア


「このクロッキーを見ていたら、リストが編曲したシューベルトのアベマリアを弾いているように見えたから……」

僕はしどろもどろになりそうになるのを必死で抑えながら仁美さんに応えた。


「へぇ。分かるもんなんやぁ……流石やなあ……ピアニストになろうかという人間は、絵を見ただけでそんなんも分かるんやぁ」

と呆れたような感心したような何とも言えない感情を含んだ声を仁美さんは上げた。


「そうかぁ……あんたにも分かるんやぁ」

オフクロは絵をじっと見ていた。


――いや、普通は分からんだろう。少しはツッコめよ――

僕は心の中で苦笑した。


 オフクロは暫く黙って自分が描いたクロッキーを見ていた。


「お母さんな、この時までこんなに美しい姿でピアノを弾く人を見た事が無かった。いつも隣で見ていたはずやのに……あんたのお父さんはこの時、本当に天から降りて来たように神々しく見えたわ」


 オフクロの意識は二十数年前に飛んでいるようだった。

「世の中にこんなに美しいモノがあるのかと……だから慌ててその姿を描き残そうとして何枚か描いたんよ」


 そう言うとオフクロはスケッチブックをめくった。

そこには鍵盤の上を踊るオヤジの両手が描かれてあった。

右手は軽くステップを刻み、左手はワルツを踊るように飛び跳ねていた。

綺麗な細い指が鍵盤の上をワルツを踊る様に滑っていく姿が描かれていた。優しいタッチで鍵盤を撫でるように指が踊っているのが描かれていた。ピアノをいつくしむように優しいタッチの指だ。

なんて柔らかくてしなやかな手首なんだ。

オフクロの絵はその時を見事に写し取っていた。


 更にオフクロはもう一枚めくった。

三枚目の絵は両手を軽く重ねて鍵盤の上に手が浮いている状態での全身像だった。

これは弾き終わった時の情景だというのはすぐに判った。左手が右手を重なる様に超えて演奏は終了した。そしてほんの僅か数秒の余韻の中にいるオヤジの姿をオフクロは描き取ったようだ。


完璧に弾き終わった後の至福な一瞬だ。


 演奏者として、表現者としての最高の一瞬だろう。

音を奏でている時に身震いするほどの感動を経験した事もあるが、それ以上に弾き切った後の感動はまさに至福の一瞬だ。


よくぞこの音を、この旋律を僕に弾かせてくれたと神に感謝したくなる瞬間だ。


このオフクロが描いたオヤジは間違いなくこの至福の時にいる。


 僕はこの絵から、オフクロの『なんとしてもこの状況を残したい』という執念を感じた。

それにしてもオフクロの絵は巧い。少し驚いた。


「そう、このままこの人は消えてなくなってしまいそうな気がして泣き出してしまいたいような気持になったわ。それで分かったのよねぇ。この人が大好きだって」


 オフクロの表情には高校生の子持ちとは思えない恥じらいと愁いが浮かんでいた。

ここで両親の馴れ初めを聞く羽目になるとは思わなかった。聞いている僕の方が恥ずかしい。


「そんな話初めて聞いたわ」

仁美さんが呆れたように声を出した。


「うん。私も初めて言ったかも」


「やっぱり愛に満ち溢れてるやんか」

仁美さんは勝ち誇ったように言った。


「そうかな」

オフクロは少し照れたように笑った。

ガサツなオフクロが少女のような恥じらいを見せた。


「でもいまだに消えずにしぶとく生き残っとるな。その堕天使も」

仁美さんは笑いを抑えているようだ。


 どう見ても既に人生そのものが砕け散ってしまったような今のオヤジからは、とても想像できない形容詞と修飾語を素面でこれだけ聞かされたら笑うしかないだろう。


しかしオフクロの表情は本当にシリアスだった。

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