第100話 クロッキー

「そうかぁ。まだけがされる前の清く正しく美しかった頃の右手やな」

と仁美さんは、穢れを知らぬ乙女時代のオフクロの右手の絵を見つめながら感慨深げに言った。


「なんやそれ?」

オフクロが呆れたように言い返すと二人は一緒に声を出して笑った。


 おばはん二人の会話は、息子が聞くにはそろそろ堪えられん内容になりつつあるのかもしれない。

僕はそう思いながらも黙ってチーズケーキを食べながらその絵を見ていた。


――これはさっさとケーキを食って退散した方が良いかも――


 これ以上会話の内容が劣化する前に自分の部屋に避難しようと思ったが、オフクロが高校時代に描いた絵にも興味があったのでソファーから立ち上がる事がなかなか出来なかった。


 オフクロは懐かしそうに次のページをめくった。

石膏デッサンがそこには描かれていた。


「アグリッパや! マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ!」

仁美さんが急に嬉しそうに叫んだ。


「よう分かったなぁ。流石イタリアヲタク」


「まあね」

仁美さんはまんざらでもない様に自慢げに笑った。少し会話のレベルを持ち直したかもしれない。


――へえ、これがアグリッパかぁ……一目見ただけで良く分かったな。凄いな――


と僕は仁美さんの豊富な知識にも驚いていたが、同時にオフクロの絵が余りにも上手いのでそれにも驚いていた。

流石藝大卒だわ。いや、この時は藝大受験しようかというところか……。どっちにしろ上手い。


 何枚か石膏デッサンが続いた後に、逆光の中グランドピアノを弾いている制服姿の男子高校生のスケッチが現れた。いや、それはスケッチではなくその場の空気を切りとったクロッキーだった。


 その高校生は、少し顎を上げて薄目を開け空を見上げてピアノを弾いていた。

そこには描き込まれていないが、音楽室の大きな窓から柔らかな木もれ陽が差し込んでいる情景が感じられた。

その光と影の中でゆったりとした曲が僕の頭に流れ込んできた。


 オフクロの手が止まった。

仁美さんが呟いた。

「あ、雪乃を汚した張本人や」


「あほ」

とオフクロは苦笑いしながら仁美さんを軽く睨んだ。やはり会話レベルの劣化は避けられそうにない。


 しかし……これは間違いなく高校時代のオヤジだ。こんな表情でオヤジはピアノを弾いていたんだ。

今よりも若い……当然だ。高校生なんだから。顎のラインが今よりもほっそりとして精悍さを感じる。


 そして優しい音が聞こえる。

この曲はシューベルトだ……そしてこの音は……リストの音だ……本当に綺麗な優しい音だった。

僕はこの絵を見た時から、頭に高校生のオヤジが弾いているピアノの音が響いていた。



「こんな男前やったっけ?」

仁美さんはオフクロに笑いながら聞いた。


「う~ん。どうやろう?」

とオフクロは首をかしげながら答えた。


「まあ、あんたの強烈な恋愛補正入っとるからなぁ……この時代は何を見ても薔薇色に見えたやろ?」


「そんな事無いわ。それに……これはまだ付き合う前に描いたんとちゃうか?」


「え? そうなん? 愛に満ち溢れてんで」


「嘘やん。そんな事無いわぁ」

この二人にはもう僕の存在が目に入らない様だ。

意識は完全に高校時代に戻っている。


「アベマリアかぁ……」


僕の口からさっきから頭の中に流れ込んでいた曲の名が零れた。


「あ」

オフクロがまた小さく声を上げた。

そして僕の顔を見開いた目で見つめて

「そうやった。この絵を描いた時、あの人はそれを弾いとった……」

と呟いた。


「え? ホンマなん。なんで亮ちゃんにそれが分かんの?」

仁美さんも僕の顔を驚いたように覗き込んだ。

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