第102話 リストとシューベルト


「そんなに早く逝かれたら困るわ。何のために別れたか分からんようにになるわ」

と呟いた。


「え? 何のために?」


「いや、こっちの事や。なんでもない」

オフクロはそう言うとスケッチブックを閉じた。

そしてすぐに顔を上げると

「なんでもないねん。ホンマに昔を思い出したなぁ。あの頃は純情無垢な乙女やったもんな」

と笑いながら立ち上がった。

「紅茶のお代わり入れるね」

そう言ってオフクロはティーポットを持って立ち上がった。


「え? あ、うん」

仁美さんは呆気に取られた様にオフクロを見上げていた。


僕と仁美さんはお互いの顔を見合わせて同時に首を傾げた。


 僕は食べかけていたチーズケーキを一気に口の中に放り込み、そこに珈琲を流し込んでから

「ご馳走様でした」

と立ち上がって自分の部屋に戻った。


仁美さんはさっきと同じように呆気に取られたような表情で僕を見上げていた。


 僕はオフクロの言葉が気になったのでも、会話の劣化に耐えられなくなったのでもなく、あの場の雰囲気に気おされて自分の部屋に戻ったのでもなかった。

実は頭の中で鳴り響いていたオヤジの『アベマリア』が余りにも美しい調べだったので、その余韻にじっくりと浸りたくて部屋に戻ったのだった。


 まだ僕の頭の中にはオヤジのピアノの音が響いていた。

『湖上の貴婦人』エレン・ダグラスの切ない願いがフランツ・シューベルトの美しい旋律に乗って伝わってくる。


 オフクロが美しいと言っていたオヤジの姿もはっきりと浮かんでいた。

オフクロの言う通りこのピアノを弾いているオヤジは、異次元の世界に居る孤高のピアニストのようだった。

 本当に燃え尽きる前の蠟燭の灯りのように儚い姿で、そこから流れる調べは優雅でありながら優しくて切なかった。オフクロでなくてもこの音を聞いた人なら誰でも同じことを思っただろう。

胸を締め付けられるような調べだった。観客はオフクロ一人。



 僕はお嬢に感謝した。

あの夏にお嬢に出会っていなかったら、僕はオヤジの音を聞く事も無かっただろう。今、僕はオヤジの弾くピアノの音を感じる事が出来て幸せな気持ちになっていた。そしてこうやってオヤジの孤高の姿を見る事も感じる事も出来た事を感謝した。


それと同時に僕にこんな音が出せるのかと不安にもなった。


 オヤジは間違いなくこの時、リストのシューベルトに対する畏敬の念と葛藤、そしてシューベルトのこの曲に込めた魂に触れていた。


リストは彼自身が『最も詩的な音楽家』と称賛したフランツ・シューベルトの歌曲を編曲し、その作品を五十七曲残している。


 その当時は『シューベルトへの冒涜』とまで言われたこともあった。しかしリストには純粋にショーベルト対する畏敬の念と、シューベルトの曲に込められた『偉大な宝』(これはリストがそう表現したのだが)という魂を取り出そうとする真摯な気持ちしかなかった。



 『作曲者の意思を常に尊重しろ』と僕が過去から言われ続けていた言葉だ。伊能先生は敢えてあまり言わなかったが、僕は言われるまでもなくピアノを弾く時はそれを一番に心がけて弾いていた。

だからいつも楽譜からそれを読み取ろうとしていた。

しかしいつもそこにはなにか物足りなさを感じていたのも事実だ。


 これまでの世間の通説や評価ではなく自分の感じた気持ちに忠実に弾こうとすると、どうしても自分の解釈をそこに入れすぎてしまう気がしてならなかった。事実、気を許すと勝手な解釈まで思いを込めて弾いていた事が何度かあった。


 しかし、今は違う。間違いなく楽譜からだけでは読み取れない作者の意思がある事を僕は自覚している。

それは僕の勝手かもしれない解釈と作者の魂との狭間で葛藤を生む。

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