第92話 懐かしいピアノ
先生は僕の言い訳じみた話を笑顔で受けてくれた。
「それはピアニストを目指すって事なのかな?」
「そうなります。一年間離れて考えた結論です」
「そう……亮ちゃんの事だからちゃんと考えての事なんでしょうね」
「ところで、この一年間ピアノはちゃんと弾いていた?」
先生は僕の目から視線を話さない。
「はい。とりあえずこの頃はなんとか弾けてます」
「ちゃんと弾いていたのね。偉いわねえ」
先生は笑顔で頷いた。そう、昔のままの笑顔だった。
それ以上先生は何も僕に聞かなかった。何故ピアニストになろうと思ったのかとか色々聞かれるのではないかと思っていた僕は少し拍子抜けしたが、同時そのまま受け入れて貰えてうれしかった。
多分先生の僕達に関する認識は、いつになってもこの教室に来た頃のままなんだろうなと思った。
そう、先生はいつもの先生だった。全然変わらない。僕は目の前のピアノを見ながらふと昔のことを思い出した。
先生の明るい楽し気な声がする。
「わぁ、上手に弾けたねえ……これはどうかな?」
先生は僕の横に立ったままピアノを弾いた。
「先生、この曲も知ってます」
僕は先生の顔を見上げて自慢げに言った。子供の頃はなんでも自慢したくなるもんだ。
「これはきらきら星変奏曲と言って、もう少ししたら亮平君にも弾けるようになるわ。ここから先も、全部弾けるようになるわよ」
何故かモーツァルトのきらきら星変奏曲を先生に初めて聞かせてもらった時の事を思い出していた。
もう十年以上も前の話だ。
そんな僕の思い出を粉砕するように冴子の声がした。
「亮平、亮平!! 聞いとん? なぁ?」
「え? ああ、聞いとぉ」
「なんなん? なんかぼーとしてへん?」
冴子の声で僕の意識はこの部屋へと引き戻された。
「先生が一度弾いてみてって」
「え? あ、はい」
僕は慌ててソファーから立ち上がた。
先生はピアノ椅子に座ったまま黙って微笑んでした。
「何を弾けば?」
僕はピアノの横にいつものように背筋をピンと伸ばして座っている先生に顔だけ向けて聞いた。
「なんでも。弾きたい曲を弾いてみて」
先生は相変わらず優しい表情だった。
頭に浮かんだのはやはりさっき思い出した「きらきら星変奏曲」だった。
――これを弾くのはレーシーの前で弾いて以来だな――
僕は迷わずにこのモーツァルトを弾いた。
またもや記憶が蘇る。
「そうそう。そこは楽しそうに。そう、もっと楽しそうに。冴ちゃんと宏美ちゃんに歌って聞かせて上げるように。ああ、良いわねえ。その調子よ」
そうだった。最初の頃は三人いつも一緒に習っていた。いつからだろう……個人レッスンに変わったのは……。
それはさておき、兎に角、懐かしい情景が蘇る。
このピアノは今僕を受け入れてくれたようだ。
鍵盤に指を置いた時に一瞬拒絶されたかと思ったが、そうではなかった。
ピアノも僕と分かったようで、一瞬で昔のように僕を歓迎してくれた。
僕はそのピアノに応えようと鍵盤の上に指を滑らせた。
なんて思い入れの強い弾き方をしているんだ……と少し思ったが、今はこの弾き方で良いと思った。
いつもの僕ならここはあっさりと流しているはずなのに、今日は鍵盤の感触を確かめるように指を置いている。
懐かしいタッチが戻って来た。
そう昔の僕はこんな弾き方をしていた。今ではちょっとぎこちない弾き方に思える。
指が徐々にピアノに馴染んできた。
そう、思い出の音より今の僕の音をピアノが聞きたがっていた。
――この一年間でお前はどんな音を奏でられるようになったんだ?――
そういう風にピアノに問いかけられているような気がする。音の粒がこちらに向かって聞いてくる。
その問には応えなければならない。指に少しだけ力が入る。でもそれは気負ったものでもなくほんの少しだけ挨拶程度の力の入れ具合だった。
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