第214話英雄ポロネーズ


僕は深く息を吸ってそして吐いた。


会場は静かだった。


僕は鍵盤に目を落とした。両腕はだらんと植物のシダの様に身体にぶら下がっている。

もう鍵盤を見ても弾く前に感じた違和感は感じない。いつもの白と黒だ。


僕はもう一度深呼吸をして息を整えると、当然のようにショパン『ポロネーズ第6番変イ長調 英雄』作品53を弾き始めた。


 僕がこの曲を選んだのはこの曲が色彩の鮮やかさを感じさせるショパンの作品の中でも、ずば抜けてその色合いの美しさを感じさせるこの曲で、どうしてもこのホールで心置きなく響かせたかったからだ。

このホールの隅々に僕が醸し出した音の粒を届かせたいという欲求を抑える事が出来なかった。ただそれだけだった。

その情景を思い浮かべるとどんなにか楽しくて素晴らしい事かとずっとワクワクしていた。


 最初に弾いたセルゲイ・リャプノフの 『レズギンカ』がロシアの民衆の歓喜の歌であるならば、このショパンの『ポロネーズ 英雄』はロシアに併合されたポーランドの民衆の悲痛な叫び声だ。


 正直に言うとこの二曲を選んだ時点でコンクールの結果はどうでも良かった。この二曲をファイナルで弾き切れたらそれで満足だった。


 僕は長い前奏の後に続く第一主題をできる限り明るく華麗な音で響かせた。国は失っても決して卑屈にはならない民衆の叫びだ。ピアノは軽やかに音の粒をまき散らしている。でも無理してホールに響かせようとすると途端に雑な音になってしまう。音のきらめきはこのピアノに任せるしかない。後は繊細にかつ大胆にと相反する音色を弾かなければならない。難しい曲ではあるが、作曲者の悪意を感じる難しさではない。


そんな事を頭の片隅で考えながら、僕は今心の底から楽しみながらピアノを弾いている。


 ポロネーズとは『ポーランド風に』という演奏方法の形式、あるいはジャンルに過ぎないのだが、この時ショパンが『ポロネーズ』を作曲するという事はもっと深い違う意味を持つ。

この時、ポーランドは11月蜂起が失敗に終わり、完全に地図上からもその姿を消し去られてしまっていた。

ショパンは望郷の念に苦しみながらウィーンを後にしパリに向かう。そこで生まれたのがこの曲だ。


 ポーランド人であるショパンがどんな思いでこの曲を書いたか想像に難くない。

何故ショパンがいまだにポーランドで崇拝されるか、いや世界から崇拝されるのか、この曲はそれを如実に教えてくれる。幾重ものドラマがこの曲には包括されている。


 今僕はホールの天井を見上げながら、この曲の美しさを堪能している。

これ程の贅沢は他にあるだろうか? 今僕の手で、僕の指でショパンが蘇っているような錯覚さえ覚える。いや、十六小節ごとにショパンが書いた物語を僕は堪能させてもらえている。


 思った通りに音の粒はホールを舞い上がり美しく舞っている。

この情景が他の人に見せる事が出来ないのが残念で仕方ない。

そう思いながらも


――なんて至福の時なんだ――


 と、僕は一人この景色を独占してる。もうピアノの音は遠くから音の輪郭だけが聞こえてきているような曖昧な残像を僕の耳に置き去りにしている。


 オヤジはいつもこんな時を過ごしていたんだろうか? こんな景色を見ていたのだろうか?


もう冴子もコンクールもオヤジの悪企みもどうでも良くなっていた。

今はこの音の色彩の中で漂っていたいだけだ。ショパンの物語はいつ弾いても僕に美しい情景を見せてくれる。


――僕は僕のショパンを弾けばそれで良い――


こんな当たり前の事を僕は分からずに、冴子の演奏を聞いてから焦っていた。


 何故この曲が英雄と呼ばれるようになったのかが分かったような気がする。

ショパンは苦悩の底にいた時でさえ精神の王であったのだ。

そしてその精神の王とは民衆に他ならない。

ショパン自身は作品に副題をつけるのを嫌っていたのでこの『英雄』と言うのは彼が命名したものではない。それは民衆から湧き上がった魂の声がこの曲を『英雄』と言う名に値する曲だと認めたことに他ならない。


 今僕はその民衆の魂に触れた。後は僕が感じたその意思をピアノにぶつけるだけだった。


 もう僕の耳には自分の弾くピアノの音もどうでも良くなってきている。身体が音の粒で覆われているような感覚。そして色とりどりの音の粒。五感全てで感じる。これが神が聴く音なのか!? 僕はそれをそのまま鍵盤に伝えているだけだ。もう自分の演奏している音も分からなくなっている。既に耳だけで音を捉えていない事は分かっていた。

神の聞く音とは魂の響きなのだ。


 今の僕はショパンと会話をしているような錯覚さえ覚えていた。正確にはそれは会話と言うより五感でショパンの意志を感じるというものだった。そう身体全部で全てを残らず吸い尽くすように感じている。なのに指先までその意思が伝わっている感覚もある。その感じた意志を僕は音の粒にして届けとばかりに空に放り投げている。


――これが僕の音です――


 しかし至福の時は短い。


僕の両腕が高く上がる。


 ホールの天井が高い。


 上げた拳を思わず握りしめた。そして一度握った両手の拳を開いて、胸の前で感謝を込めてもう一度強く握りしめた。

何故か僕の耳には僕のピアノの音が残っていなかった。その代わり全て出し切った満足感が僕の胸を一杯にした。僕には確かにショパンに僕の音の粒を届けたという実感があった。


 怒涛のような拍手と歓声を聞いて僕は我に返った。

立ち上がると客席に向かって、頭を下げてお辞儀をした。足元が少し頼りない。ステージの前に出ようとしたのに逆に後ろに下がってしまった。悟られない様にさりげなく左手を軽くピアノに置いて身体のバランスをとった。実は疲労困憊。


――ああ、この瞬間も至福の時なんだ――


と僕は心地よい疲労感を感じていた。僕のピアノは聴衆と至福の時を共有できたようだ。もしかしたら少しピアニストに近づけたかもしれない。


僕はステージからは暗くて良く見えない観客席を見上げて目を細めた。


何も考えられなかった。満足感が更に増した。気分が高揚しているのが自分でも分かった。


――これが俺の音や!!――


僕はこの客性のどこかで見ているオヤジと冴子に、心の中で叫んだ。




今、僕のコンクールは終わった。


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