第213話 レズギンカ
やっと僕の名前が呼ばれた。
僕は黙って立ち上がるとステージに向かって歩き出した。
ステージの真ん中でグランドピアノが僕を待っていた。
眩しい光の中、僕は歩いて行った。ステージの上からだと客席は全然見えない。暗闇の中だ。
このどこかにオヤジが笑いをかみ殺して座っているかと思うとむかついて仕方なかった。
客席に向かってお辞儀をしてから僕はピアノの前に座った。
いつものコンクールとは違った緊張感とさっきまで弾いていた彼女の熱気を同時に感じた。
僕はピアノに話しかけたが、何も答えない。何も聞こえない。しかし拒否はされている訳ではない。どうやらこのピアノは好きなように弾いて良いようだ。
――今、僕はここで何をしたい?――
僕は自問自答した。
ピアノを弾きたい……当たり前だ。ではどんな演奏がしたいのか?
この期に及んでまた決めかねていた。
今僕はこのまま冴子にやられたままで終わりたくなかった。そして今さっきここで弾いた彼女の音にも負けたくなかった。
いや、勝ち負けで言うなら、このさっきまでここで弾いていた彼女の方が白黒をつけやすいとさえ思った。
僕は生まれて初めてピアノで人と競って勝ちたいと思っている。
ピアノの演奏で勝ち負けを決めるナンセンスさに嫌悪感さえ感じていたはずなのに……。
それは純粋にゲームに負けたくないというあの感情と一緒だった。
いつもはライバルは自分だと思っていた……と言うか、いつもはRPGのラスボス対決の心境だった。敢えて言うならラスボスは審査員。だが、今は対戦型格闘技ゲームをしている気分だった。
勿論対戦相手は冴子と今さっき弾いた女子高生。
――必殺技を華麗に決めて決着をつけてやりたい――
まさにそんな心境だった。
僕はこの戦いを楽しんでいるのか? よく分からない。
このファイナルでは僕も二曲弾く。
最初の曲はセルゲイ・リャプノフの 超絶技巧練習曲 『レズギンカ』だ。
鍵盤に目を落とすと、白と黒の鍵盤がいつもより広く感じた。
今日の僕はやはり少し緊張しているようだ。
もしかしたら緊張というよりピアノとの感覚が少しずれているという違和感だったかもしれない。
たまに出現するこの感覚は暫く弾いていると自然と消えるのだが、こういう時はいつも少し慎重に譜面通り弾くことにしている。しかしコンクールのステージでこの感覚を感じたのはこれが初めてだった。
――丁度いい――
一曲目はさっき弾いていた彼女のように繊細に正確に弾いてみようと思った。
この違和感のお陰で僕は少し冷静に慣れた気がする。
僕は軽く鍵盤の上で右手の指を動かして感触を確かめた。
――うん。問題はない。指はいつものように動いている。手首も軽い――
僕は自分の感覚を信じて、指の動きを切らずにそのまま一気に鍵盤の指でたたいた。
音の粒が瞬時に拡散する。僕のコンクールが始まった。
高みに上り詰めながら何か人の手には抗えないものに対する畏敬の念を感じさせるような音の粒。
――誰だ? 繊細に正確に弾くなんて言っていた奴は?――
音の粒を生み出した瞬間に僕の頭の中は真っ白になった……と言うより自分の出した音に流されて畳みかけるように指が動いてしまった。自分の音に酔ったか?
民族衣装に身を包んだ多くの男女が夜を徹して踊りまくる。男達の腰に差した短剣が、力強い小刻みなステップで跳ね回る。
まるで滑るように軽やかにそして優雅に舞う女たち。長めの白いドレスが映える。
そうだった。『レズギンカ」』とは、コーカサス地方の民族舞踊・伝統音楽・舞曲事を言う。そう、強き民衆の魂が湧き上がるような音楽だ。
力強い男の踊りと優雅で華麗な女たちの舞いを僕の指は忠実に再現しようと鍵盤の上を踊る。そしてこの極寒の地でもあるロシアの自然の中、大地に根を張り生き抜いてきた民衆の魂を感じている。
この曲自体はリャプノフの敬愛する師匠でもあったバラキレフの『イスラメイ』へのオマージュでもあるだけに、その熱い想いもヒシヒシと伝わってくる。
演奏を始める前に感じた違和感のおかげか、僕は余計な事も考えずに演奏に没頭できた。
良い感じで入れたような気がする。
――でも少し早いか? このペースで最後まで行けるか? 大丈夫だ――
そしてカフカス山脈から吹き抜ける風のように音の粒が会場の中を飛び交う。
僕は顔を上げその舞い上がる音の粒を目で追った。
――美しい光景だ――
最後までこの熱情を維持しながら弾き切れるか?
今日の演奏はいつもより熱い。気持ちが高ぶっているのが分かる。
やはりあの冴子の演奏に引っ張られているようだ。
しかしこの曲を熱さだけで引っ張ると乱雑な音の粒となる。勢いは大切だが、演じるという事を忘れてはいけない……。
しかし僕が覚えているのはここまでだった。
短い時間にあまりにも考える事が多すぎて、考えがまとまらない状態の僕がやれる事は、逆に何も考えずにピアノを弾く事だけだった。もはや完全なる暴走モードに突入してしまったようだ。
それなのに僕はピアノを弾きながら会場を舞う音の粒を『綺麗だなぁ』等と眺めていた。
自分がどんな音を出していたのかという事に関してはほとんど記憶がない。興味も湧かなかった。
意識が身体から離れてしまったような錯覚に陥ってしまっていた。
それでも僕は確かに今ピアノを弾いている。
耳に自分が弾いたピアノの音が流れ込んだ記憶はある。あるがそれが具体的にどんな音だったかが全く記憶に無かった。思い出せないというのではなく記憶に無いというのが僕にとっては近しい表現だ。
ただ目に焼き付いた美しい音の粒の光景に見惚れてしまっていた。
確かに今の僕は音の粒が見えるという不思議な状況に置かれているが、聞こえているはずのピアノの音をこれほど気にせずにピアノを弾いた事は無かった。
僕はいまステージの上でピアノを弾いているという事も意識から飛んでしまっていた。
ただ、最後にリャプノフの師匠への敬愛を感じながら僕はこの曲を弾き、そして終えた。
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