第212話 マゼッパと鬼火
「はい」
どちらかと言えば控えめな声で彼女は答えた。
そして
「よし!」
と言って彼女は両手で自分の頬を叩くと
「いけずなバカは気にしない」
と呪文のように何度か唱えた。
気持ちも落ち着いたのか、僕の顔を見るとニコッと笑った。
さっきまでの自分を見失っていたような表情が嘘のような笑顔だった。
「後で、あのいけずなバカを紹介してね」
と言うと僕に深々とお辞儀をしてから彼女は舞台へと歩き出した。
「了解」
僕は軽く敬礼ポーズで応えた。
流石はこの場に残ったピアニストだ。彼女は見事に立て直したようだ。
彼女が舞台袖のカーテンに消えてからしばらく経つと、荒馬の嘶(いなな)きのような音の粒が会場に鳴り響いた。
彼女がファイナルに選んだ一曲目はリストの超絶技巧練習曲 第4番『マゼッパ』だ。
フランス・ロマン主義の詩人、小説家のヴィクトル・ユーゴーの叙事詩『マゼッパ』から着想を得たと言われている曲だ。
冴子の演奏の余韻を打ち消すような嵐の中を駆け抜ける荒馬の嘶きが会場に鳴り響く。
馬上のマゼッパは息も絶え絶えの姿で手綱を握りしめる。彼に魑魅魍魎どもが襲い掛かる。
彼女のピアノはマゼッパの波乱に満ちた人生をドラマチックに彩るように、会場一杯に音の粒を美しくまき散らしていた。
力強さよりも繊細さを感じさせる音の粒だが、リストの指示を忠実に守った正確な演奏だった。
――巧い……コンクールやと彼女の方が冴子よりも評価が高いんやないか?――
と思う程、彼女の音の粒は正確に音の粒を輩出していた。見事に冴子の残した残像を跳ね除け、自分の世界に聴衆を引きずり込んでいた。逆に冴子の後だからこそ、その正確な一音一音がひと際はっきりと聞こえてくる。
――この後に弾くのも結構な試練かもしれんぞぉ――
僕は他人事のようにその演奏を聞いていた。次に弾くのは僕だと分かっていたのに。
彼女の演奏を聞きながら、僕の意識は既に次のステージに在った。
今この場の音の全てを一度僕の中で吸収してそれをもう一度再構築しなければならない。
まずは感じなければならない。
そしてどういう風に弾きたいのか?
今この場所で一番いい音で一番きれいな音の粒で一番自分が出したい音を……ってそれって僕が今弾きたい音ってことじゃん?
――あぁ。また余計な事を考え過ぎている――
なんか安藤さんの店で聞いたオヤジの弾いたイーグルスが頭の中に蘇ってきた。
こんな時に……今ここでそれを弾いたら顰蹙だな。
彼女の演奏はマゼッパの苦悩を見事に表現していた。僕は舞台袖まで飛び込んでくるその音の粒を眺めながら、彼女の演奏に耳を傾けてしまっていた。
もう考える気力がなくなった……いや、どうでも良くなりつつあった。今更の僕のくだらない葛藤よりも、彼女の音に身をゆだねている方がどれほど有意義な時間か? などと思ってしまうぐらい魅力的な演奏で、彼女はこの物語を彼女の中で感じたままに弾いているようだった。
ステージからこぼれる音の粒を感じていると、思い出した事があった。
それは今回のコンクールが始まる前のいつだったか忘れたが……朝食をとりながらオフクロが僕に投げかけた言葉だった。
「あんた。理論って何のためにあるか知ってる?」
オフクロはテレビの画面を見ながら僕に話しかけて来た。
「なんや? 急に?」
「いや、今画面に出ているゴッホを観ていてふと思い出したんやけど……絵描きって『色使いの才能だけは天性のもの』って言われる事があるんやけどね。例えば色遣いに関する理論は沢山あるんや。三属性にしても色相環にしても、天才が何も考えずにできてしまう事を後付けで理論にしたようなもん。要するに凡人が天才の絵に近づくための方法論じゃないかと思う事がある」
TVの画面ではどこかの美術館で展示されているゴッホの絵が映し出されていた。
何故急にオフクロがこんな話を始めたのか分からないが、僕は画面を眺めながら黙って聞いていた。
「あんたを見ていると、この頃、余計な理論に振りまわされているような気がしてならないのよね。もっと自分の感性を信じて弾いてみてもいいのとちゃうかな? ってお母さんは思うんやけど」
「それって俺の演奏が理屈っぽいってこと?」
僕は色の三属性ってなんだっけ? とか考えながらオフクロの言葉に反応した。
「ううん。そう言う事ではないんやけどね。なんか、お父さんの演奏を超えようとして考えすぎているような気がする……コンクール前に余計な事かもしれんけど……ま、この話はもういいわ」
そう言うとオフクロは開いた器を持って立ち上がってキッチンに行ってしまった。
「天才って理論を超えるところにあるような気がするんやけどねえ……」
とオフクロはキッチンで独り言を言いながら流しの蛇口をひねった。
そんな事を思い出して更に考えが纏まらなくなってしまったところで彼女の演奏が終わった。
こちらはガサツなオフクロの事を思い出していたが、彼女はいけずなバカを気にしないで弾き切ったようだ。
しばしの静寂のあと彼女は二曲目を奏でた。この二つの曲の間の静寂は彼女の演奏が観客の期待に応えられた証でもあった。
二曲目も同じくリストの曲で超絶技巧練習曲 第5番『鬼火』だった。
約三分半の曲だが妖しい炎の揺らめきを表現するのに速さ、重音の響き、繊細さを要求されるいやらしい曲だ。
僕が初めてこの32分音符と半音だらけの楽譜面を見た時はそこで心が折れそうになったが、譜読みをしているうちに対抗心がふつふつと沸き上がってきた曲でもある。
旅人が鬼火に惑わされて道を迷う。目の前に現れる無数の半音階の鬼火。傷心の旅人は今の自分が鬼火の様に儚いモノだと気付く。
彼女の演奏は旅人の迷う様心のありようを見事に表現していた。『マゼッパ』よりも『鬼火』の方が彼女の演奏スタイルには合っていそうだと僕は彼女の音の粒を感じながらそう思っていた。
『道に迷う事にも慣れた旅人』に一瞬の安息が訪れたように彼女のピアノは微かの余韻を残して終わった。
他人事に構っている余裕などないはずなのに、僕は彼女の演奏に耳を傾けてしまっていた。
舞台袖に戻ってきた彼女と僕は当然の事の様に黙ってハイタッチした。
さっきまで鍵盤の上を忙しく踊っていた彼女の右手は鬼火の様に冷たかった。
「ありがとう」
そうひとこと言うと彼女は振り向きもせずに控室に消えていった。
僕はその後ろ姿を黙って見送った。
どうやらいけずなバカは無視できたようだ。良かった。
彼女の冷たい右手と触れた僕の右手は、その冷えた彼女の右手の感触を確かめるように開いたり閉じたりした。
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