第60話 からみ酒
「それはそうと、ユノはどうしてんの?」
仁美さんは思い出したようにオヤジに聞いた。
「俺に聞くな。知る訳ないやろ」
オヤジはぶっきら棒に答えた。流石に聞かれて困る質問だと僕も思った。別れた元妻のスケジュールなんて聞かれても答えようがないだろう。僕は少しオヤジに同情した。
「冷たい男やな。別れた女房には未練はないってか?」
と仁美さんは
「それ、逃げた女房やろう?」
とオヤジはさりげなく話題を変えた。
「なんや、この歌知ってんやん。オッサンやな」
と仁美さんはオヤジの思惑通り話に乗ったが、からみ酒である事に変わりはなかった。
「だから、お前と同級生やって」
うんざりした様な表情でオヤジが応えたので
「母は家にいると思いますよ」
と僕がオヤジの代わりに応えた。
このまま放置していたら、余りにもベタなツッコミ合戦にが永遠に続きそうに思えた。
「ふぅん。そうかぁ。くだらん女やな。こんな日に家の中におるなんて……」
と仁美さんはこっちの話に乗ってくれたがツッコミ先がオヤジからオフクロに変わっただけだった。
それはさておき、こんな日とか言われても、別に今日は記念日でも祭日でもないし、ましてやクリスマスでもない。
用もない大人は普通は家にいるだろう? と僕は突っ込みたくなったが黙って聞いていた。
「そんなツマらん女やから別れたんか?」
またもや仁美さんの矛先はオヤジに向かった。もしかしたら仁美さんは、僕と宏美の存在を忘れているのかもしれない。
「あんなぁ……子供の前で答えにくいツッコミ入れんな」
とオヤジは苦笑いしながら仁美さんのオデコを中指ではじいた。
仁美さんはそれを避けるでもなく受け止めて意味不明な笑いを浮かべていた。
確かにそれは答えにくいだろう……と僕は少しオヤジに同情したが、なんだか酔っ払っている仁美さんはそれはそれで可愛いなぁと思っていた。
「なぁ、一平ちゃん……安ちゃんの店に行かへん?」
と仁美さんはデコピンされたオデコを撫でながらオヤジの顔を見て言った。
「なんや? 安藤の顔が見たくなったんか?」
「まあね。あんな顔でもたまに見たくなんねん」
そう呟くように言うと仁美さんはいつもの笑顔に戻た。
「俺はエエけど……」
と言いながらオヤジは不安げな表情で僕と宏美の顔を見た。
仁美さんは僕たち二人に視線を移すと
「あんた達二人もまだいいよね?」
と聞いてきた。
僕は全然構わなかったが、仁美さんは安藤さんと何か大人の会話でもしたいのだろうと思っていたので、僕ら二人も誘われたのが少し意外だった。
宏美はどうだろう? と目を移すと、すでに行く気満々の顔で
『お姉さんにどこまでもついていきます』
という声が聞こえそうな雰囲気で仁美さんを見つめて何度も頷いていた。
とっても分かり易い彼女だ。
「決まりね。でも宏美ちゃんはちゃんとご家族に連絡しておいてね。ご両親に心配を掛けたらアカンよ」
といつもの素面の気配りを怠らない仁美さんだった。もうからみ酒モードは終了したようだった。
それから暫くドルチェと珈琲の時間を持ってから、タクシーで安藤さんの店に向かった。
ドルチェとはデザートの事だった。これで最後の謎が解けた。
また一つ僕は大人の階段を登った気がした。
宏美はその間に家に携帯から電話をかけていた。どうやら僕の家族と一緒にいると言ったらそれ以上は何も言われず済んだようだ。逆に迷惑にならないか心配されたと言っていた。
店を出る時にミケーレさんにイタリア料理の事が少し勉強になりましたというと、「それは嬉しい。いつでもまた勉強しに来てくださいね」と言ってハグされた。
人生で男性にハグされたのは初めてなのでびっくりした。
オヤジはタクシーに乗ると
「鯉川を上がって、山手幹線からトアロードを上がって下さい」
と運転手に指示した。坂の多い神戸では北は『上がる』南は『下る』という事が多い。
僕たちの乗ったタクシーはトアロードを北に上がり安藤さんの店の前で停まった。
僕はこの坂を満腹状態で上らなくて済んだのでちょっとホッとしていた。
兎に角、神戸は坂道が多い。
安藤さんの店はいつも通り、一人カウンターで暇そうに煙草を吸っている安藤さんが居るだけだった。
「ホンマにいつも誰もおらん店やな」
入るなりオヤジは安藤さんに悪態をついていた。
「ほっとけ」
どうやらこれがこのニ人のお約束の挨拶の様だ。
「お、珍しいのぉ、この面子に仁美がおるなんて」
安藤さんはカウンター越しに仁美さんを見て不思議そうな顔をして立ち上がった。
「うん。今日はこのニ人に買い物を付き合って貰っていたん」
仁美さんはコートを脱ぎながら嬉しそうに安藤さんに答えていた。
そして僕とオヤジの脱ぎ散らかしたコートも勝手知ったる店の様に
「今度のクリスマスの食器も買うたで。ユノも気に入っていたわ。明日の午後に届くわ」
と安藤さんに話しかけながらハンガーに掛けようとしてくれていた。
座りかけた宏美は仁美さんがコートを掛けるのを見て慌てて手伝っていた。
オヤジはそれをチラッと横目で見て目を細めていた。
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