第342話オヤジとの会話

 オヤジと目が合った。

オヤジは

「そもそもお前は藝大受けるんか? どないするんや?」

と聞いてきた。


 巨匠ヴァレンタインに留学を勧められてから藝大進学の話は保留になってしまっていた。もっとも僕もはっきりと結論を出さなかったので、なんとなく藝大進学の話はうやむやになっていた。


「うん。 一応受けるつもりなんやけど……」

と僕は言葉を濁した。


「なんや? まだ迷っとるんかいな」

とオヤジは呆れたようにそう言うとジョッキのビールを煽った。


「いや、藝大は受験したいねん。行ってみたい。見てみたい。で、ダニーの言う通り留学もしたい。でもそうなるともし藝大に行ったら半年ぐらいで辞める事になるし……そんな学費が無駄になるような事でけへんし……」


と僕が応えるとオヤジは

「既に合格する事が前提で話をしてんな……」

と呆れたように笑った。


「あ! そう言う意味や無いんやけど……」

と僕は慌てて否定した。

 藝大に絶対合格できるなんて傲慢な事は微塵も思ってはいなかったが、いつの間にか僕自身も藝大受験を軽く考えていたようだ……と言うか考える事を放棄していたのかもしれない。


「まあ、それはええわ。まあ、もし『藝大に合格できた』……として途中で留学しても、それはそれで中途半端になってもかまへんのとちゃうか?」

とオヤジは嫌味なひとことも込めながら言った。


僕は予想外のオヤジの軽い台詞に驚いて、オヤジの顔を凝視してしまった。


「そんな目を剥きだしてまで驚かんでもええやろ」

とオヤジはまた呆れたように笑った。


「だって勿体ないやん」

国公立大学だと言っても学費がタダでは無い。そんな中途半端な結果になるようなものに、金の無心をする訳にはいかないだろう。


「それ位構わへんわ。それよりも半年でもええから藝大の空気を吸ってこい。もし『藝大に合格できた』ならな。父さんはそれを吸えなんだけどな。お前にはええ経験や。無駄にはならんと思うで」


「そうやろか?」

今一つ納得はできなかったが、オヤジは僕が藝大受験に反対ではない事が分かって、少し気持ちが楽になったような気がした。


「母さんに聞いてみ。『行け』って間違いなく言うから。息子が自分が出た大学の後輩になるんやからな。絶対に反対せえへんわ」

そう言うとオヤジはビールジョッキを煽った。


「そうなんかなぁ……」

オヤジの言わんとする事は理解できたし嬉しくもあったが、オフクロはどういう反応をするかに関してはその言葉だけでは自信が持てなかった。

ただ、行けるものなら藝大にも行ってみたいという気持ちに間違いはなかった。


 オヤジはビールを飲み干すと

「これお代わりね。それと五種盛りととん平焼き頂戴。お前らも食いたいもんあったら注文しいや」

とカウンターの女性に注文を出した。


 オヤジはこの日、僕の進路についてこれ以上何も聞いて来なかった。

ただ僕の中では藝大に行きたいという気持ちが更に強くなった。


 第一、留学にしたって何一つ決まったものがある訳でもなかった。

確かに世界の巨匠のひとことは心強いひとことではあったが、留学先が保証されている訳では無かった。


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