第97話 別れ

「これからピアノを弾く目標を大学受験にはしぃひんからね。コンクールは視野に入れるけど、藝大合格を最終目標にはしぃひんからね。そでれもええ?」

と渚さんは僕の目をじっと見て聞いた。


 僕も本音では受験のためのピアノは嫌だと思っていたので、渚さんの言葉はありがたかった。


「はい。それで良いです」


 そう言って僕は伊能先生を見た。

先生は微笑(ほほえみ)を返してくれた。

そして

「今日の亮平君のピアノの音を聞いて、やっはり私では教える事がないと思ったのよ。もう技術的に教える事は本当にないわね。後はもっと奥の深いところ。亮平君の心で感じる音というかそういう世界の音ね。今十六歳の亮平君に必要な物を教えられるのは渚だけだと思うわ。これは本当よ」

とゆっくりと僕を諭すように話してくれた。


「そしてこれからは亮平君が自分自身の手で掴まないとダメな世界なのよ。普通の人よりはちょっと早いかもしれないけど……」

先生はそこで言葉を一度切った。


「そう、亮平君の音を手に入れるためには、渚が一番だと思うの」

先生は優しい目をして言った。

先生のこんな優しい目を見たのは初めてだった。


「ああ、これで僕は伊能先生から卒業するんだな」

と思ったら少し寂しかった。先生とのこれまでの事が一気に走馬灯のように駆け巡った。


 一年前この教室を離れる時はそれほど思っていなかったのに、今日はとても寂しい気持ちになった。


――いう事を聞かない生徒でごめんなさい――


と、同時に渚さんなら僕の音を一緒に探してくれそうな気もしていた。


「これからよろしくね」

そう言って渚さんは右手を差し出した。


 僕はそれに釣られるように右手を出すと、渚さんは力強く僕の手を握ってきた。

暖かくて柔らかい手だった。今までの人生のほとんどをピアノに捧げた手だった。


「二年後までにどうするか決めればいいのよ。まだなんとでもなるわ。選択肢はいくらでもあるから」

渚さんは笑いながらそう言った。

その言葉を聞いて僕は少しホッとした。


――そうか、選択肢は沢山あるのか――


 思い付きで決めた訳ではないが、昨年の今頃はピアニストになりたいと言い出すなんて想像もしていなかった。だから、本当にどうすれば良いのか分からなかった。そう具体的に何をどうすれば良いのかなんて今でも全然分からない。


 そんな僕の気持ちを見透かしたように渚さんは

「亮平は何も考えずに今一番弾きたい音だけを考えなさい」

と言った。


「はい」


 僕はそう答えると宏美と冴子の顔を見た。

二人とも黙って聞いていたが、冴子が笑って

「頑張りな」

と言ってくれた。宏美はそれを聞いて笑って頷いていた。


 僕はまた少し気持ちが軽くなったような気がした。

そして今日、僕はやっとスタートラインに立ったような気がした。

オヤジがいうように鍵盤というパレットからどんな色が飛び出すのか見てみたい。いや自分がどんな色の音を出せるのか見てみたい。


 先生の顔を見たら、いつものように優しく笑っていた。

その笑顔に僕は心の中で呟いた。


――伊能先生、本当に今までありがとうございました――


と。

 

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