第198話 地区本選
地区本選当日、僕は朝から会場にいた。
控えの部屋に入ると冴子がすでにそこにいた。椅子に腰かけて譜読みをしていた。
「早いやん」
僕は冴子に近づくと見下ろすように声を掛けた。
「あ、おはよう。うん。これが最後のコンクールやと思うと、なんや落ち着かなくて勝手に目が覚めてしもうたから……家におってもしゃあないし……」
冴子は顔を上げて僕の顔を見た。彼女にしては珍しく気弱な発言だなと思った。
「そうかぁ。お前でも緊張するんやな」
と僕が軽口をたたくと
「あら? 心外やわ。私かって緊張ぐらいするわ」
と応えたが、その表情からは言うほどの緊張感は伝わってこなかった。
そこはいつものような強気の冴子の表情だった。
「さいですか。それは大変失礼な事を申しましたねぇ」
と僕は笑いながら答えた。
「でも、まだ最後やないで。全国があるからな」
「せやった。全国行かな……なぁ」
と冴子は軽く笑いながら言った。
「あ、そうや、宏美も来てんで」
冴子が思い出したように言った。
「うん。知っとぉ。昨日夜聞いた。一緒に来たんか?」
「なんや。知っとったんや。そうや。一緒に来てん」
二人で電車で仲良くやってきたらしい。
「お前らホンマに仲ええなぁ」
と僕が笑うと
「当たり前やん」
と冴子はドヤ顔で応えた。
「そう、でもここに……この同じ控室にはあの子はおらへんのよねぇ……」
と冴子は寂しそうに呟いた。
中学生時代までのコンクールには大抵三人で参加していた。ただ宏美の場合は僕達に付き合って参加していただけだったので、コンクールの意味をはき違えていた。
その上、会場でも天然ぶりを発揮していて緊張感のかけらも無かった。そんな奴でもいつも一緒に居る仲間がいないのは寂しいものだ。僕には冴子の気持ちが良く分かった。
「ああ、あの緊張感とは無縁の存在はある意味貴重やったなぁ……」
そう、ある意味あの宏美の全く物おじしない、場をわきまえない態度に僕達も引き込まれて楽屋で緊張感との戦いを一切せずに済んだ。
彼女にとってコンクールとはどうでも良い場所だった。三人仲良くピアノが弾けたらそれで良かったのだと思う。
「はぁ、あの子は発表会とコンクールは同義語やったからねえ」
冴子はため息交じりに言った。
「そうやったな」
冴子と宏美の控室での会話のかみ合わなさを思い出して僕は笑った。そう、冴子はいつも強がってはいたが、それでも多少は緊張しているように感じられる時はあった。
しかし宏美にはそれがなかった。ほとんど緊張なんかしていないのではないかとさえ僕は思っていた。
「なんや? まだ緊張してんのかぁ?」
「せえへん方がおかしいやろ?」
冴子は少しイラついたような感じで応えた。やっぱり冴子はいつもと違う。いつもはこんなに自分の気持ちを正直に言ったりはしなかった。人に弱みを見せるのが大嫌いな女ではなかったのか?
「そうかぁ……なぁ?」
僕は敢えてとぼけた様に応えた。実際に僕自身はそれほど緊張をしていなかった。
「あんたのその鈍感さが羨ましいわ」
と冴子は呆れたように僕を見て言った。もしかしたら冴子の中では僕も宏美と同じような鈍感な人間と思われているのかもしれない。もしそうなら間髪入れずに反論したいところだが、今この場でそれは本当に無意味な行為なのでやめた。
僕達が……特に冴子がピアノのコンクールを真剣に考えだして、それなりのコンクールを選んで参加するようになった頃から、宏美は参加を渋る様になった。
参加してもそれなりの成績は修められると思うのだが、本人はそのためだけに何時間も練習をする意味を見出していなかった。彼女にとってピアノとは楽しんで弾くものであったし、コンクールとは発表会に限りなく近い演奏会か力試し程度にしか思っていなかった。実はそれはその当時の僕も同じだった。
冴子もそんな宏美の事は勿論分かっていたが、ここにその張本人がいない状況は寂しいようだ。かくいう僕も少し寂しかった。そう宏美は冴子と僕の心の安定剤だった。
「ところでさぁ、お前の呼び出し時間は何時やったけ?」
と僕は話題を変えようと冴子に聞いた。いつまでも控室でしみじみとしていても始まらない。
「私は十時半。亮ちゃんは?」
「俺は十一時半。午前中の最後かな?」
「そうかもしれんなぁ」
そう言うと冴子はまた譜面に視線を落とした。
最後の最後まで彼女は努力を怠らない……いや、そうでもしていないと緊張感で押しつぶされるような気持になるのかもしれない。僕は冴子の邪魔にならないように隣に座って黙って文庫本を読む事にした。
「鈴原冴子さん」
冴子の名前が呼ばれた。肩がピックと震えた。
彼女の時間がやって来た。
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