第197話 幻影とノクターン 嬰ハ短調 第20番
哀しみに満ち溢れた旋律……そして今僕の目の前で弾いているのは間違いない……高校生時代のオヤジだ。
しかしなんて寂しい音色なんだ……そしてなんて哀しい表情で弾いているんだ……今まで何度か高校生時代のオヤジの姿を見た事はあるが、こんな打ちひしがれた姿を見たのは初めてだ……何故?……と思った瞬間に思い出した。
オヤジは高校三年生のこの時期にピアノを弾くのを諦めた。
今僕が見ているのはその時のオヤジ姿だ。間違いない、オヤジはここでこのピアノを弾いていた。憔悴しきっていたのに、鬼気迫る姿でピアノを弾くオヤジ。
お嬢の予言を聞いた爺さんに無理やりピアノを辞めさせられたオヤジ。
もう少しで自分だけの景色を見る事ができるというその時に、その全てを諦めたオヤジ。
納得などできはしないのに黙ってピアノに向かうオヤジ……ただひたすらに音を紡いでいく。音の粒を奏でる人。
でも僅かに諦めきれない葛藤がこの音の粒から伝わる。その音の粒はピアノを飛び出して天井や壁に吸い込まれるように儚く消えていった。
僕はその音の粒たちを黙って目で追った。
こんな状況でありながらオヤジの音の粒はよどみなく生まれ、ピアノから湧き出る泉のようにこぼれ出していた。まるでオヤジの命を削ってその音の粒一つ一つに分け与えているような演奏だ。息をするのも忘れるほどの儚さを持って音の粒は音楽室の壁に吸い込まれていく。
こうやってオヤジは独りで、自分の夢と決別したのだろう。結局、最後までオヤジは誰にも相談もせずに決めたんだろう。多分、オフクロさえもこの時のオヤジの葛藤は知らないはずだ。
一人で孤独に耐えているオヤジを……正確にはその残像を僕は今、目の前で見ている。
僕のオヤジはこんな思いをしてピアノを弾いていたのか……その想いをこの四分足らずの曲にオヤジは込めて幕を引いたというのか? ここまでどんな覚悟と想いでピアノを弾いていたんだ?
僕にはそんな覚悟も想いもない。ピアノは気が付いたら僕の傍にあった。あるのが当たり前だった。
その程度の想いの僕がこのオヤジよりも神の音に近づけるのだろうか?
コンクールのために僕はピアノを弾いているんじゃない。何故僕はコンクールに出るんだ?
冴子の最後のコンクールだからか?
それもある。いや今回はそのためだ。それは良い。しかしそんなものは僕がこれからピアノを弾き続ける理由ではない。
人が聞ける最高の音を僕は奏でたい。ただそれだけだ。
甘い。まだまだ甘い。そして弱い。
覚悟が無い。自分ではそれなりに覚悟を決めたがそれなりの覚悟ってなんだ? 中途半端な覚悟は覚悟とは言わない。ピアニストを目指す者……いや音楽に対する者としてまだまだ未熟だ。
僕はオヤジの幻影に打ちのめされてしまった。お嬢のお陰で余計なものを見せられてしまう自分が少し恨めしい。明らかに自分自身に落胆している……。
しかしそれと同時にオヤジのあのピアノの音に魅せられている。あの音を超えたいと思っている自分にも気が付いてた。
生半可な覚悟ではオヤジが到達した境地まで行けないとは分かっているが、僕は何としてもそこに辿り着きたいと思った。
――僕はまだ散歩のついでに富士山に登ろうとしてた――
オヤジの影はその曲を弾き終わると頭を上げて天井を見上げた。そして深く息を吐くとその姿は、すうっと消えていった。さっきまで音楽室に漂っていた音の粒の様に儚く消えた。
オヤジは本来ならこの曲をショパン国際コンクールで弾くつもりだったのではないか? ふとそんな気がした。
確かに予選ならこの曲を弾いてもおかしくはない。
この演奏を最期にオヤジは自分の夢を断ち切った。これがオヤジが真剣に弾いた最後のピアノだったんだ。僕はそれを今聞いた。
――こんなクソオヤジに勝てるか!!――
と思うのと同時に
――何としてもこのクソオヤジを超えたい!――
という思いがフツフツと湧いている。
僕は立ち上がってピアノの蓋を静かに閉じて、暫くオヤジの残像を確認するようにピアノを見つめた。
そして鍵を握ると音楽室のドアを閉めて学校を後にした。
あのオヤジを見た後に、今ここでそのまま同じピアノを弾く気持ちには、さすがになれなかった。
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