第292話 美乃梨の報告
「こんばんは」
と笑顔を見せながら美乃梨は歩いてきた。もうすっかり神戸っ子だ。
「おう、いらっしゃい」
と安藤さんが声を掛けた。
「なんや、こんな時間に?」
と僕が聞くと美乃梨はコートを脱ぎながら
「亮ちゃんがここにおるっておばさんに聞いたから来たんや」
と応えて壁のフックにコートを掛けた。
そして僕の隣に座った。
「え? 俺に用があったん?」
予想外の返事に僕は驚いて聞き返した。
「そうやで。亮ちゃんに何回かけても携帯に出えへんから家にかけたんや。そしたらおばさんが『ここにおる』って教えてくれたんや」
そう言うと美乃梨は
「安藤さん、私はミルクティ下さい」
と注文した。
僕は慌ててポケットに入れた携帯電話を取り出して確認した。着信履歴に美乃梨の名前が何件も連なって残っていた。
「あ、ホンマや全然気が付かんかったわ」
「そんな事やと思ったわ」
と美乃梨は呆れたように笑った。
僕が
「執念深いな。こんなに何回もかけなくてもええのに……」
と呟くと
「何回かけても気が付かん奴が言うな」
と美乃梨が切り返してきた。生意気な奴だ……でも咄嗟に返す言葉が出てこなかった。
結局、僕は携帯電話を閉じながら
「で、何の用なん?」
と聞く事しかできなかった。
「うん。あのね。実は……私も器楽部に入ろうかなって思って」
と美乃梨は答えた。
「え? お前も?」
正直言って驚いた。冴子や宏美だけでなく美乃梨もか!……もしかして?!……すぐにオヤジの顔を見た。見たというより睨んだという方が正確かもしれない。美乃梨の話を聞いた瞬間、『また裏でオヤジが糸を引いているのか?』という思いが頭をよぎった。
それはすぐにオヤジに伝わったようだったが、
「俺も知らん」
と慌てたような素振りで首を横に振った。
どうやら今回に関してはオヤジは噛んでいないようだった。
改めて美乃梨に
「本気かぁ?」
と聞くと
「うん」
と小さい声で頷いた。
「って……お前ピアノ以外なんかしてたん?」
「中学生の時、吹部でオーボエ吹いてた」
「そうやったんや」
そう言えば美乃梨が昔吹部にいたという話は夏休みに田舎で聞いたような気がする。演奏していた楽器までは聞いていなかったが……。
「じゃあ、うちでオーボエ吹くってか?」
「ううん。残念ながらそれは違うねん」
と美乃梨は首を横に振った。
「え? 何すんの? まさかヴァイオリンとか?」
「ブッブ~それも外れ」
今度は顔の前て両腕でバツ印を作っていった。
「じゃあ、何すんねん?」
「なんもせえへん。何も吹かへん」
「はぁ?」
――こいつは何を言っているんだ?――
と一瞬イラっとした。
「まさか、指揮者希望とか?」
とひらめいたが
「あ、それええなぁ……巨匠に教えて貰うのもありやし……でもそれとも違う」
と即答で否定された。
「ほな、なんやねん」
僕にはそれ以上何も思い浮かばなかった。
美乃梨は目の前に置かれたティーカップを持ち上げるとおいしそうに飲んだ。
「ああ、暖かくておいしいわぁ」
と幸せそうに言った。
安藤さんは笑って満足そうに頷いていた。
――完全に焦らして楽しんでるなぁ――
幸せそうな顔が腹立たしい。
「で、結局何すんの?」
イラつきながらも僕は聞いた。これで焦らされたら聞かずに帰ろうと思った。
「うんとね。実はマネージャーすんねん」
今度はあっさりと答えた。
「マネージャー?」
思いもよらない答えに、僕の思考は全くついていけていなかった。
「そう」
「楽器を演奏する訳でもなく?」
「そうや。別にオーボエ吹いても良かってんけど、それほどオーボエには執着がある訳でもないし」
「執着無いって……で、マネージャーって何する人なん?」
おぼろげながら部員の世話をする人なんだろうなぐらいの想像はできたが、それだけだった。それ以上は何も浮かんでこなかった。なので考えるより先に僕は、素直に美乃梨に聞いた。
体育会系の部活ならまだしも、文科系の器楽部に必要なのだろうか? と疑問を感じながら。
「簡単に言うと部員の面倒を見たりコンサートや楽譜の手配や演奏の準備とかそんな事する人らしいわ」
と美乃梨は答えた。美乃梨自身もよく理解していないようだ。
個人的にコンクールに出ない限り、うちの部活は音楽大会や全国大会みたいな他校と競う事は無い。
あるのは定期演奏会と文化祭での演奏会やイベントでの演奏会ぐらいだ。
新学期からはもっとそれを増やすとでもいうのか? だからマネージャーが必要になったというのか? 疑問がふつふつと湧いて頭の中を駆け回っていた。
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