第291話 オヤジの記憶

「うん。弾いた。母さんがリクエストしてきた」

流石はオヤジだ。やっぱり僕も同じ曲を弾いた事は分かった様だ。


「そっかぁ……」

オヤジはそう言うと今度は黙ってグラスを煽って『ふぅ』と天井に向かって息を吹いた。


「そう言えば、お前の母さんが好きな曲やったなぁ……」

と思い出したように言った。


「なんや? それも忘れとったんかぁ」


「ああ、完全に忘れとったわ、そんなもん忘れてんのに決まってるやろ。お前に言われて思い出したわ」


 どうやらオヤジは本気で忘れていたようだ。忘れていたのにオフクロの好きだった曲を弾いていた。それは偶然なのかそれとも無意識にこの曲を選んでいたのか、オヤジにも分かっていないみたいだった。



「なんや? お前、亮平にピアノ買うてやったんか?」

と安藤さんが驚いたように会話に入ってきた。


「ああ、そろそろグランドピアノに慣れささんとな」

と、どや顔でオヤジが言うので

「ってヴァレンタインに言われたんやんなぁ」

と僕がツッコんだ。


「そうや。俺もそう思っとったんやけど、ダニーに言われて『もう買ってもええ時期やな』って踏ん切り付いたからな」

とオヤジはとぼけた表情で僕のツッコミをスルーした。


 僕たちのやり取りを聞いていた安藤さんが

「そう言えばそんな事を言うとったなぁ……」

とどうでもよい話を思い出したように呟いた。


「そうや。ただ亮平が本気でどこまでやるのか、もう少し見極めてからでもええかぁ……とか思っとってんけどな」

とオヤジが言ったのを受けて、すかさず安藤さんが

「でもダニーに先にそれを言われたんで……」

とツッコミを入れた。


「滅茶ムカついてん」

とオヤジは間髪入れずに応えた。本当に腹立たし気に言った。

どこまで本気か分からなかったが、ムカついていたのは本音だとなんとなく理解できた。本当にこういう事は判り易いオヤジだ。


「そんな事やろうと思ったわ」

と安藤さんは大笑いした。この人はオヤジの事をよく分かっている。


オヤジは不貞腐れたような表情でグラスを煽った。もうほとんど氷だけになっていた。


「お代わり!」

と言ってグラスを安藤さんに差し出した。

安藤さんは笑いながらグラスを受け取った。

受け取りながら

「ユノってショパンが好きやったんや?」

とオヤジに聞いた。


「ああ、ショパンは好きやったなぁ……まあ『ノクターン第2番』はその中でも割と好きやったんとちゃうかなぁ……」

とオヤジは頭の底に微かにこびりついた昔の記憶を掻き出すように言った。

忘れていたという割には色々と思い出したようだった。


 その時、店の扉のカウベルがなってお客さんが入ってきた。

振り向くとそこには従姉妹の美乃梨が立っていた。

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