第104話 独り立ち


「うん。本当にあんたが描いたこの絵と同じ姿やったなぁ。流石は親子や」

と仁美さんは感心したようにオフクロに言った。


 オフクロはソファに深く座って、僕に聞いた。

「あんた、この前までこんな音を出していなかったやん。確かに父親と同じような音は出していたけど、ここまででは無かった。なんでや?」


「え? そうか?」

と僕はとぼけた。


「そうや。あんたのピアノに何年付き合ってると思ってんねん」

オフクロは少し鼻声だった。


「まあ、そうやけど……」


「それにしても本当に親子やな。そっくりやったわ」

オフクロは呆れかえったように言うと、ソファの背もたれに頭を預けて天井を見上げた。


「でも、この前父さんに『それでも俺の聞こえている音とは違う。お前の音をちゃんと鳴らせ』って言われた」


「ふ~ん。そうなんや」

オフクロは背もたれから頭を起こすと僕の顔を見つめて言った。


「うん」


「そうや、あんた伊能先生のところへ戻ったんやろ? 先生はなんて言うとったん?」

オフクロは思い出したように聞いてきた。


「また、音が変わったって……」


「やっぱり先生にも分かっていたんや」


「うん……で、もう教える事無いから渚さんに任せるって」


「渚さん……?」

オフクロは目を細めて怪訝な顔をして聞いてきた。


「うん、昔あの教室におったお姉ちゃんの」


「え? もしかして三崎渚ちゃん?」

一瞬でさっきまでの怪訝な顔が驚きの表情に変わった。


「そう。母さんも覚えていたんや」


「え? 伊能先生じゃなくて、ホンマにあの渚ちゃんに教わてんの?」

オフクロは更に驚いたような表情で僕に聞いてきた。


「うん」


「え~。そりゃ凄いわ」


「え? なんで?」


「あんた知らんの? あの子結構有名なピアニストやで」


「え? そうなん。知らんかった」

今度は僕が驚いた。


「相変わらず呑気やな」

オフクロは呆れたように僕の顔を見た。


 どうやら、渚さんは由緒ある国際コンクールで上位入賞してたピアニストだった。それ以外のコンクールでも優勝を重ねていたような人で、近頃は各国の交響楽団とも共演もするようなピアニストだった。僕はピアノを弾いていながら全くそういう世界は興味がなかったので今の今まで知らなかった。


「伊能先生が渚さんに相談したんやて。で、正月明けに先生と渚さんの前でピアノを弾いたら『これからは私があんたのピアノを見る』って言われた」

僕は正月明けのピアノ教室での出来事を話した。


 オフクロは黙って聞いていたが、僕が話し終わると

「あんたはそれで良いんか?」

と確認するように聞いてきた。


「うん。このまま渚さんに教わろうと思う」


「そうか。あんたが良いというならそれでええわ。お母さんは何も言わんよ」


「おお、またもや息子のIndependence Dayに立ち会ったわ……去年の夏と言い、今日と言い、お母さんの寂しくなる現場に遭遇するなぁ」

と仁美さんが笑いながら言った。


「うるさいなぁ」

とオフクロが仁美さんを睨んだ。


「でも……こうやって男の子は母親から旅立って行くんやねえ……」

と仁美さんは呟いた。

「え?」

オフクロは軽く眉間に皺を寄せて仁美さんの顔を見つめた。


「あんたもちゃんと母親してるんやなぁって感心してたんよ」


「まあ、この子の母親やからね」

オフクロは表情を緩めて少し照れたように応えた。


「そうやね。堕天使の息子でもあるけど……」

仁美さんは笑っている。


「そうそう。それが問題なんやけどね」

それって僕の事か? 何が問題なんだ?


「でも、あんたらの子供やからな……他人のような気がせんわ。ホンマに私も亮ちゃんは息子みたいな気がするもん」

仁美さんはそう言うと僕の顔を覗き込むように見た。


 僕はドキっとした。

仁美さんの化粧水の匂いが軽く僕の鼻腔をくすぐった。


「そうやろうな。こんな愚息で良ければいつでもあんたの息子にして頂戴」


「え? ええんかぁ。すぐにでも引き取るで」


「ほなやるわって言いたいところやけど、安ちゃんとラブラブのあんたのところなんかに行ったら亮平がおかしくなるわ。だからやらん」


「そうやな。ピアノ以外の事に目覚めたりしてな。やっぱ今は要らんわ」

と結局二人で大笑いを始めた。


 何なんだこのおばはん連中は?

要するに、僕はおばはん二人のネタにしかならなかったようだ。


 こんな理不尽なおばはん連中はさっさと無視して、僕は今感じた感触を思い出しながら自分の部屋に戻った。


リビングからは相変わらず二人笑い声が聞こえる。


 僕はベッドの上で仰向けに寝転がりながら心地よい虚脱感の中にいた。

まだ両手には弾いている時の感触が残っていた。

両手を見た。いつもの僕の手だ。


 僕はそれを見つめながら思った。

更に自分の音を追いかけようと。そしてもっと至福の時を味わうために……と、同時に「オバハン達の話のネタにはならんぞ」と固く心にも誓った。


 僕は一日も早く自分の音を見つけたかった。いや、それは正確ではない。音はほぼ聞こえている……どう弾けば良いかも分かっている。でもそれがまだ完全に身に付いていない。だから僕の音が出せないでいる。もどかしい。


 僕の手から零れ出る音は、今はまだオヤジの音だ。オヤジに聞こえている音だ。

僕が聞こえている音ではない。近しいが違う。


僕の音を僕の手で再現したい。響かせたい。それが今一番の僕の願いだ。

 

 窓の外の日差しは柔らかい。

もう春の足音が聞こえていた。それは軽やかな春の訪れの音だった。


 僕はベッドから立ち上がり部屋の窓を開けた。

外の空気は春の匂いがした。

僕はこの匂いが大好きだ。透き通た空気の香りがする。

冬の冷たさの残像が僕の鼻腔をくすぐる。


 大きく息を吸い込んでこの冬の残り香と春先の匂いを僕は味わった。


「もう春やな」


 弥生三月もうすぐ四月。僕は二年生の春を迎える。


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