第172話 冴子のヴァイオリン

  一呼吸置くとそのままUn poco più lento ハ短調 へ。

冒頭のピアノソロで僕は敢えて冴子の心情を探るような音の粒を出してみた。サイレンサーで抑え込んだヴァイオリンの音の粒は、冴子の心のほてりを冷ますかのように静かな旋律を奏でていた。


 それはこれまで聞いた事が無いような優しい音だった。いつもの繊細な旋律に似ているが違う。心の中の葛藤を抑え込んだ後のこの静かな落ち着きは一体なんだ? さっきまでの音とはまた違う音だ。


 彼女は全てを吹っ切って新たな自分の世界を手に入れたようのか? 彼女に何があったというのだろうか?


――私はピアノで亮ちゃんと競う事が出来ない――


――そんな事はない。お前は上手い――


――そういう事ではないのよ。亮ちゃんには分からないわ――

彼女の奏でる音の粒は哀愁に漂う色の中にいた。そこに何の迷いも躊躇も感じなかった。


――ああ、そうか。これは冴子の今の気持ちだ。でもなんで?――

何故だか僕は置いてけぼりを喰らった子犬の様に寂しい気持ちになった。


思わず『俺を置いて行くな』と叫びそうになった。


 僕の指は彼女の音の粒の余韻が更に美しく聞こえるように鍵盤にそっと指を落とし続けた。

一音も彼女の声を聞き漏らすまいと僕は彼女の音の粒を拾い、そして僕の音の粒を一つ一つ一緒に溶け込ませるように弾いた。


 僕はいつまでも冴子の音の粒を眺めていたかった。そう、冴子の心の声を僕は音の粒から感じ取ろうとしていた。そうもっと冴子の気持ちを感じでいたかった。もっと寄り添っていたかった。


 そして本当に哀しかった。

なんでこんなに今日の冴子の音は切ないのだろう。綺麗な色の音の粒が何故か哀しい影を帯びていた。


――置いていくのではないわ。これからは私の為にピアノを弾いてもらうのよ――


――なに? それはどういう事?――


 冴子の本心が分からない。不安感が指に伝わる。音色が変わる。

僕は必死で自分の音を制御する。こんな経験は初めてだ。

感情を音に乗せる事に初めて恐怖を感じた。

僕の心の動揺が冴子に見透かされてそうな気がしてならなかった。



 一瞬の静寂の後

Allegro molto vivace イ短調で彼女は一気に弾けだした。

彼女は完全に吹っ切ったような弾ける音を奏でだした。


 彼女のピチカートは鬼気迫るものがある。いつの間に冴子はこんな音が出せるようになったんだ?

僕はここまで何度彼女の音を聞いて驚かされたか……。もう中学校時代のバランスの悪い音は微塵もなかった。


 冴子に置いてけぼりになりそうな不安に駆られた僕は、ここで彼女のピチカートに対して少し走り気味にピアノを鳴らしてみた。

無駄なあがきだと思いながら。


――何を勝手に一人で決めているんだ!――


と僕は思った。


 彼女の視線が一瞬僕と合った。しかし彼女は何事もなかったように僕のその小さな抵抗を抑え込んだ。

諦めの悪い僕は軽やかなピッチを押し止めるがごとく重い音を挟みこんだりしたが、それも彼女は一瞬で撥ね退けてそれを糧に一気に駆け上るような音の粒を生み出した。

彼女はもはや僕の悪戯さえ楽しんでいるようだ。


 僕は彼女の本心をこれ以上試すような事は止めて、最後は彼女の思うがまま好きに弾かせようと決めた。


――亮ちゃんとこうやって一緒に音をこれからも紡いでいきたわ――


――今までもそうやって来たやないか――


――ふん! 相変わらずね。バカ!――


 僕を見てそう微笑むと彼女はラストまで一気に駆け上がった。左手のピチカートは音の粒がはっきりと聞こえている。右手に比べても何らそん色はない。本当にこれが冴子の音なのか?

僕は最後まで彼女に驚かされていた。


 僕は彼女のヴァイオリンと戯れるようにピアノを弾いた。彼女はそれにこたえるように更に高みへと昇り詰めていった。ああ、これはこれで何とも言えない気持ちのいい瞬間だ。至福の時はこういうのかもしれない。

さっきまで感じていた置いてけぼり感はどこへ行った?



 彼女はもう自分の道を見誤る事はなく、まっすぐに進んでいく決心がついたようだ。

そんな音の粒だった。しかしそこには決別の音が混じっていた。彼女はやはり何かに踏ん切りをつけたようだ。哀しみの影は決別の想いを映し出していた。


 弓が高く舞った。余韻が音楽室に漂い、聞く者の心の中へと吸い込まれていった。


 聞いていた二年生は一斉に立ち上がって拍手をした。いや、せざるを得ない旋律だった。圧倒的な力を見せつけた音だった。


 冴子は僕を見て微笑んだ。彼女には一番縁の遠い無邪気な笑顔だった。

彼女が僕に……いや人前でこんな表情を見せる事はこれまで一度もなかった。

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