第110話 完成された音と楽しい音
「いや、大したことやない。そこに座敷童がおるだけや」
真剣な顔でオヤジが応えた。
「え? 嘘?」
安藤さんの表情が凍り付いた。
案外こういう話は苦手なのかもしれない。
「嘘や。こんなしみったれた店におる訳ないやろ」
オヤジは笑いながらビアグラスを持ち上げて、残ったビールを一気に飲んで空いたグラスを安藤さんに渡した。
「悪かったな。しみったれた店で」
安藤さんはしかめっ面でそう言いながらもホッとした表情を浮かべてオヤジのグラスを受け取ると、新しいグラスにもう一杯ビールを注いだ。
「ま、他の楽器と一緒にやるのもええ勉強になるわ。どんどんやったらええと父さんは思うぞ」
オヤジは目の前に置かれた新しいビアグラスを見ながら僕にそう言った。
「うん」
僕も同じようにオヤジのビアグラスを見ながら頷いた。
「それとクラシック以外の曲もやった方がええな」
「え? そうなん?」
僕は顔を上げてオヤジを見た。
「まあ、視野を広げる意味でもええんとちゃうか?」
「そうなんや……」
僕はそれもアリだなと思いながらオヤジの言葉を頭の中で反芻していた。
「でやな、他の楽器とやる時もクラシック以外の曲をやる時も共通している事は、楽しみながらやるこっちゃな」
「楽しみながら?」
「そう、楽しみながら弾く事や。お前の場合は特にそうかもな」
「え? そうなん?」
「ああ、お前は今ここで弾くべき音をちゃんと分かって弾いている。それはそれでええねんけどな。お前の場合はお嬢のお陰でそれが聞こえるようになったからな」
「まあね」
オヤジの言わんとする事は分かる。
「それがなぁ……時と場合に依るからなぁ」
「え?」
「その音がいつも正しい音とは限らんちゅうことや」
「どういう事?」
と僕が聞き返すとオヤジは僕の顔をしばらくじっと見つめて
「まぁ、それは、ええわ。今はお前が聞こえる音、感じられる音だけ……それだけを追いかけてもええかもな」
とだけ言った。
オヤジの言いたいことは判然としなかったが
「うん、分かった。今は追いかるのに必死や。まだ足りんような気がする。もっと正確に弾きたいと思う」
と僕はそれ以上オヤジに聞かなかった。
「そうやろうな……でもな、正確で完成された音を奏でるという事と奏者が楽しみながら弾くという事は全く違う事やからな」
「そうなん?」
さっきから僕は聞き返してばかりいる。
「聞こえた音を弾くだけならそれは単なる再生機や。CDプレイヤーと同じや。お前の場合の完成された音はそれや。今はそれでもええけどな。でも、それだけやったらつまらんようになると思うわ」
「あ、そうか」
僕はオヤジの言葉が何となく腑に落ちた。
「ホンマに分かったんかぁ?」
と疑い深そうにオヤジが聞いてきた。
「いや、なんとなく」
そう……本当に何となくだった。
「ええ加減な奴やな。でもそれでええ」
オヤジは笑いながらそう言うとビールを一口飲んだ。
「そうかぁ……楽しみながらかぁ……あんまり経験ないかも」
僕は独り言のように呟いた。
「まあ、今はすぐに思い出せんで忘れているだけかもしれんけどな。どっちにしろ色々と考えることはお前にとってはええ経験やと思うわ」
「それってJAZZみたいなんかな?」
と思いついた事をそのままオヤジに聞いた。
「ほぉ。お前JAZZに興味あんのか?」
オヤジは少し驚いたような顔をして聞いてきた。
「いや、そういう訳ではないけど」
「ふ~ん」
オヤジはそう言うと柿の種を口に放り込んでからまたビールを飲んだ。
ハッキリ言ってJAZZには興味が無かった。だから自分の口からJAZZという言葉が出たのに僕自身も少し驚いていた。
「ま、これからお前は色々と考える事になると思うわ。今までな~んも考えんとピアノ弾いてきたんやからな」
オヤジは何故が楽しそうにそう言った。
僕のピアノはな~んも考えてないピアノだそうだ。でも、そうかもしれないと、この時は思った。
考えているようで実は大事なことは全く考えていないような気がしてきた。
それと同時に渚さんとのレッスンの時に彼女に言われた事を思い出した。
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