第279話 アンコール
拍手が止むのを美奈子先生は黙って待っていた。
徐々に静まる講堂……。美奈子先生はそれを確かめるように観客席をゆっくり見渡した。
「今期の器楽部・吹奏楽部合同のオーケストラは、この演奏会が最後です。楽しんでいただけましたでしょうか? この時期にこんなに多くの生徒の皆さんが来てくれて本当に嬉しく思います。ありがとうございました。
思い返せば昨年の五月に有志六名で立ち上げた器楽部。二十数年振りの復活でした。この六人で細々と演奏会をやっていくのかと思っていたら、彼ら彼女たちはそこから部員募集のポスターを作り勧誘をはじめました。それが今こうやって器楽部三十二名、吹奏楽部有志十八名の計五十名のオーケストラとして皆さんの前で演奏する事が出来ました。思ってもいなかった成長ぶりです。
その器楽部を立ち上げオーケストラを実現し、受験シーズンも顧みずこの時期までもしぶとく居残ってくれた三年生三名もこの演奏会が最後です」
観客席から軽い笑い声が漏れた。
美奈子先生は僕たちに振り向くと姿勢を正して
「最後まで本当によく頑張ってくれました。ご苦労様。そして本当にありがとう」
と笑顔で言って頭を下げた。
そして客席に向き直ると
「それではアンコール曲ですが、この最初の六名が初めて一緒に演奏した曲。この器楽部の原点ともいえる曲。パッフェルベルのカノンをお聞きください」
と言って先生は両手の手の平を上に向けてステージ上の部員に立ち上がる様に指示した。
それを合図に全員が立ち上がり、そのほとんどが舞台の袖へと消えて行った。
僕はヴァイオリンをケースに収め再びピアノの前と移動した。
ステージの上には千龍さん、石橋さん、彩音さん、哲也、瑞穂そして僕の六人が残った。
美奈子先生が僕たちの顔を一人一人確認するように見つめていった。
そして頷くと静かに指揮台から降りて舞台袖へと去って行った。
静まり返った講堂。
僕達六人だけがステージの上に残された。
ステージが広く感じられた。
千龍さんが黙って視線だけで合図を送る。
六人の呼吸が合った瞬間、哲也のチェロの調べから曲は厳かに始まった。
ゆったりとした旋律が講堂を満たしていく。
そこへ彩音さんのヴァイオリン、そして瑞穂が寄り添うように優しい音色を重ねていく。
二人のヴァイオリンの音色を確かめるようにヴィオラが入ってくる。千龍さんはいつものように柔和な笑顔だ。
そしていつものように無表情で演奏を聞いていた石橋さんが千龍さんと目配せして入ってきた。コントラバスの重い音が響く。本当に石橋さんのコントラバスは重く響く。ちゃんと音を出し切っている。
そして最後に僕のピアノ。この空気を乱さない様にそっと入った。
彩音さんと視線が合った。彩音さんの目元が微かに笑たように見えた。いつもの全く隙のない表情ではなく、とてもリラックスして弓を弾いているように見える。でも音の粒はいつも通りとってもきれいで透き通っている。いや、音の粒はいつもより楽しそうに踊っていた。
いつも無表情の石橋さんもなんだか泣いているのか笑っているのか分からない表情でコントラバスを奏でている。ちょっと切なかった。
今まで何度もこの曲をこの六人で演奏したのにこれが最後の演奏だと思うと、寂しさと懐かしさが入り混じったようなどうしようもない思いで胸が一杯になった。
ただ言える事は今僕達は何の緊張感もなく純粋に最後の演奏を楽しんでいるという事。
たとえて言うなら最後の最後に貰ったご褒美の様な演奏。そう、これは器楽部を立ち上げた僕達に贈られた至福の時間。
始めてこの六人で一緒に演奏した時の音の粒も綺麗だったが、今この時の演奏は更に艶やかな音で厚みの増した響きを持っていた。
僕たち自身もあのころとは違った音を出せるようになっていたし、この六人で色々と試行錯誤しながら作り上げた音の粒の流れだった。音作りに終わりはない。どこまでも行けそうな気がした。
哲也と視線が合った。そして瑞穂とも……二人とも笑って視線を返してきたが、どこか名残惜しそうな寂しそうな表情だった。
その気持ちはとてもよく分かる。
瑞穂のヴァイオリンは彩音先輩に必死で食らいついているように聞こえる。『もっと一緒に弾きたい』と言っているようだ。
しかし僕達は何の未練も残していないかの様に静かにカノンを弾き終えた。まだまだ沢山やり残した事があったような気もするのに、何故か満足感も感じていた。
拍手と共にステージの照明がゆっくりと落ちて幕が下りた。
立ち上がった僕達は降りた幕に向かって
「ありがとうございました」
と、もう見えなくなった観客席に頭を下げた。
このメンバーでの演奏会の最後をしめる事が出来て幸せだった。
瑞穂は『彩音さん』と言って抱きついていた。
千龍さんが
「良い演奏だったなぁ。ホンマに俺たちに付き合ってくれてありがとな」
と僕の肩を軽くたたきながら言った。
「いえ……」
と言った後なんていえば良いのか分からなかった。ただただ変な愛想笑いを浮かべていたような気がする。そうしていないと涙がこぼれそうだった。
哲也は石橋さんの前で俯いて肩を震わしていた。
――我慢せんかいな。つられてまうやろが――
と言いかけて止めた。口を開いたら間違いなくひとことも言えずに、我慢できなくなる事が分っていたから……。
天井を見上げるとスポットライトが眩しかった。
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