第397話千恵子


「まあな……」

拓哉はそう言って頷いた。


 いつもの市大会止まりの吹奏楽部にしたら大躍進である。しかし、この結果で吹奏楽部のメンバーが誰一人納得できなかったであろう事は僕たちには容易に想像ができた。


 暫く僕たち三人は黙ってそのフルートの音色を聞いていたが、


「拓哉もお疲れさんやったな」

と僕は声を掛けた。彼も関西大会には出場していたのを思い出した。


「ああ。悪かったな。気ぃ使わしたのに全国行けんで……」

拓哉はあの合宿の夜の事を忘れていなかったようだ。


「気は使ってないけど、コーヒー牛乳まだ奢ってもろてないな」

と僕が応えると哲也も

「俺のみっくすじゅーすもまだやな」

と言った。


「ふん、気が向いたらな」

と拓哉が苦笑いしながらボソッとひとこと言った。


「それはそうと弁当食おか……」

と思い出したように哲也は言うと、自分のリュックサックから弁当箱を取り出した。


 それを合図のように

「せやな。早よ食わな午後からの補習に間に合わんしな」

と拓哉も弁当箱を取り出した。拓哉はもう気持ちの切り替えが済んでいるようでいつもの拓哉だった。


「ホンマにな」

と僕は少し心残りではあったが、窓を閉めてエアコンの冷気が漂い出した教室の空気に浸ることにした。


 昼食を取った後、哲也は『今日は後輩の指導担当だ』とチェロのメンバーと合流し、拓哉は補習へと向かった。

一人残された僕は音楽室に戻った。

もう少しピアノを弾いてからヴァイオリンのメンバーと合流する予定にしていた。


 小一時間ほどピアノを弾いたであろうか? 手を休めて軽く休憩していると、音楽室の扉が静かに開いて女子生徒が入ってきた。


 それはさっき寂しげな音色で僕たち三人を切ない思いにさせてくれた瀬戸千恵子だった。

右肩にデイバックを下げ、その右手にはフルートケースが握られていた。


「あれ? 今日は藤崎君だけ?」

と千恵蔵は意外そうな顔で聞いてきた。


「ああ、拓哉なら補習に行ったで」

と僕は応えた。

「そっかぁ……居ないんだぁ……」

と千恵子は残念そうに呟いた。やはり彼女は拓哉目当てに音楽室に来たようだ。


「なんや? 拓哉に用事でもあったん?」

と僕が聞くと

「ううん。そういう訳ではないんやけど……居るかなぁ? って思って」

と千恵子は首を振った。


「ふ~ん……残念やったなぁ。今頃、拓哉はお勉強中やな」

と僕が言うと

「そっかぁ、補習かぁ……藤崎君は今日は一人?」

と千恵蔵はそれほど落胆した表情も見せずに聞いてきた。


「ああ。哲也はパート練習に行ってもうたし……もう少しピアノ弾いたら俺もヴァイオリンのパート練習に行こうかと思っとってん。千恵蔵は今日からこっちに合流すんの?」

 吹奏楽の大会が終われば、もううちから吹奏楽部に出稼ぎに行った部員はお役御免である。いつ帰ってきてもおかしくはない。


ただ三年生は受験勉強に突入する時期でもある。千恵蔵はどうするつもりなんだろうか? それが少し気になりながら聞いた。


「うん。そうしようかなって思っとう」


「そっかぁ……今日から器楽部かぁ。お帰りぃ……吹部への出稼ぎお疲れさん」


「うん。ただいま。別に稼いではいないけど……」

と言って千恵蔵は笑った。


「それにしても関西大会は惜しかったなぁ」

と僕は千恵蔵に労(ねぎら)いの言葉をかけた。

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