第62話 失言

「実はね……さっきこの子達と一緒に食事をしていて思ったん。家族も良いなぁって」

仁美さんはグラスを片手に独り言のように言った。

そして

「私も結婚を考えた事はあんねんけどなぁ……でも、仕事も面白くてどちらかを選ぶって出来ひんかったんよねぇ……若い時は……」

そう言うとグラスに口をつけて軽くCCを飲んだ。


「あぁ美味しい」

仁美さんはそっと唇をグラスから離すと、ため息にも似た声がその口から洩れた。

その姿が余りにも艶やかな姿に僕には見えた。


 若い時の仁美さんが仕事に没頭して結婚しなかった話なんかはどうでもいい。今この瞬間の仁美さんは間違いなく美しい。

 ほんの少しの動作だけでそこにそこはかとなく色気を感じる。今ピアノの鍵盤を軽くなでるようにはじく小指が頭に浮かんだ。


 こんな仁美さんのような艶っぽい音が出せたらどんなに良いだろう。今の僕の音には艶やかさという言葉は見当たらない。

ああ、弾きたい。ピアノが弾きたい……と唐突に僕は思った。今なら弾けそうな気がする。今なら思った音を鳴らせる。表現できる!!?……表現だとぉ!


――嗚呼そうかぁ……僕は自分の想いを鍵盤を通して表現したいんだぁ――


 その瞬間僕は表現者になりたいんだと強く自覚した。

僕にとって奏でるという事は表現することだ。僕は今、表現をする者と言う言葉の本当の意味を知った様な気がした。

体に雷が抜けていったような衝撃で僕はそれを理解した。


 そう、ピアニストではなく表現者。たまたまその表現方法が僕にはピアノだったという事だ。

今僕は唐突に気持ちを揺れ動かされていた。そう、さっきまで全く予想もしていなかった感情が一気に沸き起こってその処理に戸惑っている。


 僕は自分の思いを感じた事を表現したい。ただそれだけだった。僕の今まで培ってきた技術はそのためだ。


 しかしその思いの全ては、明らかに今この時間この場所には不釣り合いなものだった。

僕はこの不釣り合いなものを周りに悟られないようにするのに必死になっていた。



「いや、仁美は本当にいい女やと思うわ。逆にいい女過ぎて、誰も手が出せんのとちゃうか?」

安藤さん煙草に火をつけながら仁美さんに話しかけた。


今の僕はこの二人の会話を、上の空で聞いている。


「う~ん。そんな事は無いわ。はっきり言って可愛げが無いのかもね」

と仁美さんは首を振った。


「可愛げねえ……昔は結構きついところもあったけど、気も付くし面倒見も良いし可愛げもあると思うけどなぁ」

という安藤さんの言葉を聞いて大きく頷いた宏美が、仁美さんをまっすぐに見て

「仁美さんはとっても可愛いと思います。仕草もさり気ない気の使い方もとっても素敵な女性だと思います。私は今日、本当に仁美さんのファンになりました」

と目を輝かせて訴えるように言った。


「ありがとう宏美ちゃん。本当にあんたはええ子やわ。亮ちゃん、宏美ちゃんが彼女で良かったわね」

と仁美さんは僕の顔みつめて言った。


 さっきから自分の急に湧きだした感情を抑える事で手一杯だった僕は、急に話題をふられたので一気に焦ってしまった。


「はい。とっても幸せです!」

と自分でも何を言っているのか分からないまま声だけが出ていた。


 大人三人は一瞬驚いたような表情をしたが、急に微笑んでそして大きな声で笑いだした。

その笑い声を聞きながら僕は自分の言ったセリフをやっと理解した。


――恥ずかしすぎる――


恥ずかしすぎる台詞が頭の中をリフレインしている。


 僕は俯くしかなかった。顔を上げていられない。

よりによってこんな時に、こんな恥ずかしい台詞を吐かなくても……。


何か言い訳をしなくてはと思ったが言葉が出ない。

宏美が僕の袖を握って一緒に俯いている。


――ああ、なんて僕は恥ずかしい奴なんだ――


「偉いなぁ。男だなぁ……亮ちゃんは……きっぱりと言い切ったもんねえ……」

仁美さんはそう言って僕を褒めてくれた。


「それ、忘れたらあかんで。いくつになっても男は自分の台詞に責任と自信を持つんやで」

仁美さんは僕の瞳の奥を覗き込むように見て言った。

僕は思わず頷いたが


――さっさとこの事は忘れたい――


それが今この状態での偽らざる僕の気持だった。

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