第253話理不尽な怒り

「ど、どうしたん? 二人揃って?」

と、少し焦りながら聞くと、つかつかと冴子が近づいてきて

「ヴァレンタインに何言われた?」

と詰め寄ってきた。もうすでに全てを知っている顔だとすぐに分かった。


「別に……何も……」

それでも僕はとぼけてみたが、無駄な時間つぶしだった。


「あんた、留学すんのか?」

冴子はストレートに聞いてきた。


「知っとうんやったら、一々聞くな」


「ふん。お父さんがヴァレンタインを呼んだ理由が、あんたに会わすのが目的やったからな」


「なんやそれ? ホンマかぁ?」


「ああ、ホンマや」


「お前それを知っとったんか?」


「うん。知ってた」

と冴子は俯いた。


「なんで、それを俺に言わんのや?」


「ただ単にあんたとヴァレンタインを会わせたかっただけやと思ってたんや……確かにあんたのピアノやったらヴァレンタインに聞かす価値はあるやろう。でもそんなんいちいち、あんたに言わんやろ?」

 冴子も今日のヴァレンタインの申し出は予想だにしていなかったようだ。まあ、普通はそうだろうと僕も冴子の話を聞いて思った。


「……第一、ヴァレンタインがあんたの演奏を聞いてどう言うかなんか分からへんやん。普通に『良い演奏やった』ぐらいは言うとは思ってたけど……まさかあんたをパリに呼ぶとは思わんかったわ……」


 確かにそうだった。僕の演奏を聞いてダメ出しされる可能性だって十二分にあったはずだ。まさか留学の話にまで出てくるなんて冴子だって想像していなかったに違いない。


 冴子は廊下の奥を指さしながら

「お父さんの書斎は隣に会議室があるんや。知ってるやろ?」

と聞いてきた。


鈴原さんの書斎は扉一つで会議室につながっている。僕も何度かその部屋に入った事がある。

どうやら冴子はその部屋から扉越しに僕たちの会話を盗み聞きしていたようだ。

「ああ、知っとう。そこで聞いとったんか?」


「うん」

と冴子は頷いた。


「あんまり、ええ趣味とは言えんな」


「そんな趣味はないわ。なんか嫌な予感がしたから聞いただけや」


「ホンマか?」


「ホンマや。ダニーが余りにもあんたの事で興奮してたからちょっと驚いたんや」

と冴子はヴァレンタインをフランクな愛称で呼んだ。彼女もヴァレンタインとは長い付き合いの様だ。


「ねえ、亮ちゃん。ホンマにフランス行くの?」

とさっきまで冴子の陰に隠れるように立っていた宏美が聞いてきた。


「……」

僕は何も答えられなかった。この宏美の表情を見るのが辛くて、どうしようかと悩んでいたというのに。


「藝大はどうすんの?」

と宏美は質問を重ねた。


僕はまともに宏美の顔を見れなかった。


――だからまだ何も考えてないって――


「……まだ分からん。そんなにすぐに返事できる訳ないやろ」

と目をそらしたまま答えた。


「何を悩んでいるの?」


「え?」

僕は思わず宏美の顔を凝視した。


「これって凄いチャンスなんやろ? なんで迷うん?」

宏美は僕の顔をじっと見つめながら視線もそらさずに聞いてきた。


「いや……」

 僕は宏美の口から出た言葉が、あまりにも想像からかけ離れていたので、一瞬何を言っているのか理解できなかった。

それは冴子も同じだったようで目を見開いて口をポカーンと開けて固まっていた。

多分僕も同じような間抜けな顔をしていたと思う。冴子の表情を見て我に返った。


「お前は反対やないの?」


「そりゃ、離れるのは辛いけど……これは亮ちゃんにとって、もの凄いチャンスやん。反対するなんてでけへん」

宏美は冷静だった。むかつくほど落ち着いていた。

実は僕はその宏美の態度に少し……いや、それなりにむかついていた。憤っていた。


――俺はお前にどう言おうか悩んだというのに、お前は悩みもせえへんのか?――


 そう思いながら何故こんなに腹が立つのか分からなかった。先に言われただけでこんなにも腹が立つものなのか? 


――お前には俺と離れ離れになるという事はその程度の問題だったんかぁ――


 考えれば考えるほど、無性に腹が立ってくる。誰かに八つ当たりがしたい気分だった。いや、既に気持ちの中では宏美にぶち当たりまくっている。小さな憤りが一気に沸点まで達したような気がしていた。自分でも不思議な感情が湧いてきていた。


そして今確かな事は、これ以上この場にいたら間違いなく余計なひとことを言ってしまうという事だった。


「お前の気持ちはよく分かった……」


そう言うと僕はきびすを返してホールに向かった。


 背中越しに

「亮ちゃん……」

と言う宏美のかすれたような声が聞こえたが、それには応えずに僕は無言で歩いた。


 宏美に「行かないで」と言って欲しかったのか? そうではなかったはず。それを言われるのが怖かったはず。でも、じゃあなんでこんなに無性に腹が立って仕方ないのだろう? 


――そんなに俺から離れたいのか――


 少しは……いや、あまりにも物わかりが良すぎて、大人の対応過ぎて何か無性に寂しくなったのかもしれない。

物わかりが良すぎにもほどがある。その上、僕は何に対して怒っているのか、自分でも良く分かっていない。

――俺の人生や! お前が勝手に決めるな!――


別に宏美が僕の人生を指図した訳でもないのに……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る