第252話 オヤジの言葉
「今すぐこの場で答える必要はないからな。ゆっくり考えてええ。藝大に行ってからでも構わへん。でもな、ピアニストとして生きていくなら本場の音を聞く事も体感する事も大事な事や。なんせピアノはあっちの世界で生まれた楽器やからな。兎に角、行くか行かへんかを決めるのはお前や。これはお前の人生やからな」
そんな事は言われなくても分かっている。僕が聞きたかったのはそんな台詞では無い。
話が唐突過ぎる上に今の僕にはどう応えて良いのか全く分からなかった。
だから兎に角今は『行ってこい』とか『行け』とか、オヤジに決めてもらいたかった。他力本願かもしれないが、今この時点では考える事が無性に鬱陶しかった。
自分の人生を他人に任せたい時もある。
今の僕は自分の一存で決められる状況では無かった。そしてオヤジの台詞に突き放されたような感覚を感じていた。
「オヤジは賛成なんや」
少しムッとしながらオヤジに聞いた。
「反対する理由は無いな」
とそっけなくオヤジは応えた。
「そっかぁ」
その答えにも少し腹立たしさを感じたが、
――本場で聞くピアノの音はどんなもんだろうか? オペラ座ではどんな音の粒が舞うのだろうか?――
と答えが出せない割には、いろいろな空想だけが浮かんでは消えていた。
「オヤジが……」
と言いかけて止めた。僕は『オヤジ俺と同じ立場ならどう答えたんだ?』と聞きかけたが、この場にその言葉は不釣り合いだと気が付いたからだ。
オヤジが高校生時代に同じ事を聞かれたら考えるまでもなく即決していただろう。でも、行きたくても行けなかったオヤジに対して、もう少しでおバカでデリカシーの欠片もない質問をするところだった。
しかしオヤジはそれを聞き逃さずに
「残念ながらこれは父さんの人生やない。お前の人生や。お前の人生の岐路や。だから父さんに意見を求めるな……でもな、慌てて答えをださんでもええやで。悩んで悩んで結論を出したらええ。こんな贅沢な悩みはそんなにあるもんやない。楽しんで悩んだらえええんや」
と言った。
オヤジを見ると笑っていた。どうやら突き放されたのではない様だ。
――あ、これがオヤジの答えか――
「うん。分かった。悩んでみる」
少し心が軽くなったような気がした。
「ヴァレンタインさん、少し時間を下さい。どっちにしろ僕だけでは決められないです」
「勿論。じっくりと考える事も大切な事です。私は待ちますよ。あなたのお父さんを待ったように……」
「え?」
「そう、でもお父さんの場合は待ちぼうけでしたけどね」
と言って寂しそうに笑った。
僕は驚いてオヤジを見た。やはりオヤジも誘われていた様だ。
オヤジはとぼけた顔をして目を逸らした。
オヤジがピアノを辞めた理由を巨匠には話していない。まあ、普通は話さないだろうな。話したところで誰も信じないだろう。
――でも、オヤジは行きたかったんだろうなぁ――
オヤジの叶えられなかった夢を僕が叶えると言うのは息子として少し興味はある。
しかしそれだからと言って、今この場で結論を出すのは無理だ。
オフクロの顔も浮かんでいた。
「ユノは怒るかな?」
鈴原さんがオヤジに聞いた。
「さあ? どうやろなぁ……」
とオヤジは鈴原さんの質問をはぐらかす様に応えていたが、なんとなくオヤジには分かっているような気がした。
「君に見せたい世界が沢山あるんだ」
そう言ってヴァレンタインは僕の肩に手を置いて微笑んだ。それはオヤジにも見せたい景色だったのだろう。
それはさておき、世界の巨匠にプロポーサルされていると思うと僕は少し感動した。オヤジの時にはどう言って誘ったのだろう? と、どうでも良い事が頭に浮かんだが、結構それは僕にとって気になる事だった。
「分かりました。じっくり考えてからお答えします」
と言って僕は立ち上がった。これ以上ここにいたら、巨匠に押し切られてしまいそうな気がしていた。
ヴァレンタインも同じように立ち上がって
「良い返事を期待しているよ」
と言って手を差し伸べてきた。
その手を握ると強い力で握り返された。
僕は一礼してから扉を開けた。
部屋を出ると膝が微かに震えているのが分かった。自覚は無かったが僕は凄く緊張して興奮していた様だ。その緊張から解放されて膝が笑っていた。
僕は廊下の壁に手をついて「ふぅ」と息を吐いた。そして今僕が体験した現実を思い返して頭の中で整理してみた。
――ヴァレンタインに誘われているんだよなぁ――
確かに世界の巨匠の師事を仰げるのは魅力だ。奇跡のような幸運だ。チャンスだ。それにヴァレンタインはピアニストとしても素晴らしい演奏家だ。
今まで何度となく彼の演奏を聞いたり、映像で見たりはしているがどれも素晴らしい演奏だった。
――この人にピアノを教われる――
こんな幸運なチャンスは二度とないという事も分かっている。
それだけを考えるのであれば答えは『YES』だ。
オフクロにはなんて言おう? 『まだ早い』って言われるかな? いや、それは言わないと思う。
宏美にはなんて言おう? これは悩む。 宏美と離れたくないし、それを彼女に告げる状況を想像するだけで怖い。宏美がどういうかなんて想像もできない。
――宏美も一緒に来ない?――
そんな子供じみた事は言えないな。言ってしまいそうだけど。
もしかしたら僕が即決できなかったのは宏美の存在が一番だたかもしれない。
考えても仕方ない。考えるのは家に帰ってからにしようと決めた。僕は自分の両頬を両手で叩いて気合を入れた。
僕は廊下をサロンに向かって歩き出した。サロンの扉を開けようとした瞬間、背中越しに「亮ちゃん」と呼ばれた。
振り向くと、少し離れたところに冴子と宏美が立っていた。
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