第251話巨匠からの誘い



「へい。リョーヘイ、呼び出して済まなかった。そこに座って」

とヴァレンタインが僕に長椅子に座る様に勧めた。

「はい」

と返事をして僕は座った。

大人たちに囲まれてなんだか落ち着かない。どうやら僕を呼んだのは冴子のお父さんではなく巨匠だった。


 ヴァレンタインは僕の隣に同じように腰を下ろすと

「実はね、今月の頭にシゲからメールを貰いました」

と言ってから横目で鈴原さんに視線を移した。


「とても面白いピアニストが居ると……」

そう言って僕の顔を覗き込むように見つめた。


「『クリスマスにそのピアニストが演奏する。これを聞き逃したら一生後悔するだろう』とまで書いてありました。そこまで書かれて来ない理由はありません。だから私はここに居ます」


 僕は無言でマエストロの顔を見つめていた。鈴原さんは冴子のためにそんなメールを送っていたんだと、さっきサロンでオヤジと話したことを思い出しながら聞いていた。


「そして私は長年追い求めていたピアニストの音を久しぶりに耳にする事になった。目の前で演奏しているピアニストは私の想い出の音を見事に再現してくれた上に、私の想像を超える音を奏でてくれた……言っていることが分かりますか?」


「あ、は、はい。よく分かります」

僕は慌てて返事をしたが


――ここに来た理由は分かったけど、冴子はそんな演奏していたっけ?――


と、全く違う事を考えていた。

確かに冴子の演奏はまだオヤジの音を残していたが、巨匠が言うようなそんな演奏をしていたとは僕には思い当たる節が無かった。マエストロには何か感じるものがあったんだろうか。


「ところで、リョーヘイはこれからどうするつもりですか?」

と僕の事を尋ねてきた。


「え? 僕ですか? 僕は藝大に行ってピアノの勉強をするつもりです」


「なぜ藝大に行く?」


「まだまだピアノの勉強をしたいと思ったからです」


「勉強? 誰か習いたい先生でもいるのですか?」


「いえ、それは居ません」

 ちらっと山吹先生の顔が浮かんだが、『習いたい先生か?』と敢えて聞かれると素直に頷けなかった。

嫌いな先生でもない、どちらかと言えば尊敬している先生だ。何度かレッスンも受けた事もあるし、本格的に師事を仰げばそれなりに教えてもらえるだろう。それに僕の足りない技術的な事も教えてもらえるという事は分かってはいたが、生意気にも今まで山吹先生に師事するという状況を想像をした事が無かった。

第一に僕が藝大に行きたいと思ったのはオヤジが目指した大学だったからだ。習いたい先生が居るからではなかった。

本音で言えば、教えてもらいたいピアニストは一人だけこの世の中で存在する。それは僕のオヤジだった。僕はオヤジのピアノの音を聞いてピアニストを目指そうと決めたんだから。

でも、こんな場所では口が裂けても言えないけど。


「それで一体、何を学ぶというのだろう?」

ヴァレンタインは不思議そうな顔をして聞いた。


「僕もよく分かっていません。ただ1日中ピアノを弾いていられる事だけは間違いなさそうなので、それでも良いか……程度にしか考えていないません」

もうほとんど、投げやりな態度で答えてしまっていたかもしれない。


「ふむ。それは大いなる時間の無駄だ。リョーヘイはピアニストを目指しているという事で間違いはないか?」

ヴァレンタインはオヤジの顔をちらっと横目で見てから、念を押すように確認してきた。


「はい。そのつもりです」

僕は自分の声が少し声が上ずっているのに気が付いた。こんな風に進学の件で詰められた事は一度も無かった。それを世界の巨匠に詰められている自分がちょっと不思議でもあった。



「うむ。だったら本場に来ないか?」

ヴァレンタインは何度も頷いてから聞いてきた。


「本場?」


「そうだ。パリだ」

畳みかけるようにヴァレンタインは言った。


「パリぃ?」

完全に声は裏返ってしまった。


「ウイ。花の都パリ」


「なんでパリなんですか?」


「やはり習うのならコンセルヴァトワールに行くべきだ。そこで私が君にピアノを教える。来年から私はパリに戻る」


「え?」

僕は驚いてオヤジを見た。

オヤジは黙って頷いただけだった。

アメリカでの常任指揮者の仕事はどうなった?


「え? 冴子は?」


「サエコ? おお彼女は素晴らしいヴァイオリニストになるでしょう。彼女がその気なら良い先生を紹介しましょう」

と言った。


「え? 面白いピアニストって冴子の事ではないんですか?」


「何を言っている。さっきから僕は君の話をしているんだよ?」

とヴァレンタインは驚いたようにそして少し憤ているような感じで僕に言った。


 それを聞いてオヤジが吹き出していた。我慢しきれずに笑い出した。オヤジは途中で僕の勘違いに気が付いていたようだ。だったらすぐに教えろよ。と僕も腹の中で憤ていた。


「確かにサエコのピアノも素晴らしい。個性的だ。しかし、彼女の視点はもうピアノには無い」


「まあ、そうですよね……」


「という事で、リョーヘイ、パリが君を待っている。推薦状は私が書く」

ヴァレンタインはこぶしを握り締めて力強く言い切った。


「いや、誰も待ってないでしょう……そもそもそんな事、すぐには結論出せないです。第一、僕はまだ高校二年生ですよ。学校はどうするんですか?」


「勿論、それは卒業してからでよい。どうだ」


「いや、どうだって言われても……フランス語もできないし」


「ノンノン、そんなものはどうとでもなる。僕でも日本語を覚えられたんだから、あなたにだってできる」

それは僕にとって『俺にだってこんな(世界の巨匠と言われる)指揮者になれたんだから君にだってなれる』と言われるぐらい意味のないフォローだった。


「少し考えさせてください……やっぱり、すぐには結論出せません」

これが今この場で僕が答えられる精いっぱいのセリフだった。ついさっきまで留学なんて事は微塵も考えていなかった。頭の片隅にも無かった。それをこの場で即答せよというのは、僕のキャパを超えている問題だ。


 大人たちに囲まれて僕は息が詰まりそうになっていた。


――こんな時は保護者のオヤジが何とかするのが普通ではないのか?――


と思いながら視線を送ると、それを察したのかオヤジが口を開いた。

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