第187話気遣い

同じように二人が音楽室から出て行く姿を見届けていた哲也が振り振り向いて

「亮平」

と僕の名を呼んだ。


「うん?」

僕は哲也の顔を見た。


 彼には似つかわしくない真剣な顔で

「話は変わんけど、お前、結局コンクール出んの?」

と聞いてきた。


「なんや? 唐突に……まあ、出る事にしたけど」


「いつやったっけ?」


「再来週の週末や」


「え? もうすぐやんか! こんなところで部活しとってええんかぁ? 練習は?」


「朝と夜に弾いとぅけど……」


「そんなんでええんか?」


「多分……」


「多分って……相変わらず緊張感ない奴やなぁ」

と哲也は呆れたような顔をしていった。


 つい最近までスランプで打ちのめされていたような奴に呆れ顔で言われる筋合いはないのだが、そんな奴から見ても全くやる気が無いように見えるのだろう。

しかし今回ピアノでのコンクールが最後の冴子に『待っている』なんて言われたら出ない訳にはいかない。もっともその程度のモチベーションでしかないが、僕は参加すると決めたからにはそれなりに練習はしている。


 ただ、僕にとってはRPGのラスボス画面を攻略しに行くようなもので、そんなに身構えるものでもないだろうと思っているのだが哲也は違ったようだ。


「そう言うお前はいつなんや?」


「え? お、俺? 俺はら、来月の半ばや」

哲也は僕に聞き返されたのが予想外だったのか、言葉に詰まりながら答えた。人の事を心配している場合か?


「そう言うお前の方は大丈夫なんか?」


「多分……」

と言ってバツ悪そうに俯いた。


「なんやそれ! 俺と一緒やんか」


「言われてみたらそうやな」

と哲也は頭を掻いて照れ笑いで誤魔化した。


「お前らホンマに大丈夫か?」

と拓哉が心配そうな顔で聞いてきた。僕と哲也は乾いた笑い声で答えたが、拓哉は呆れたような顔でため息をついた。


「まあ、地区予選で落ちる訳にはいかんからな」

と僕は自分に言い聞かせるように拓哉に言った。



 しかし、この日は哲也と拓哉の二人が僕に気を遣ってくれたおかげで、早めに部活を切り上げて帰ってきた。


 家に帰ったらオフクロはまだ仕事場から帰ってきてなかった。誰も居ない家の中。


 リビングの灯りを点けた。

リビングテーブルにオフクロが書いたメモが置いてあった。

内容は読まなくても分かる。今日の夕ご飯は自分で温めなさいと書いてあるに違いない。多分カレーだろうと予測もついた。


 それほど空腹感を覚えなかった僕は、コンクールの地区予選課題曲のおさらいでもするかとピアノに向かった。ちょっと哲也の言葉も気になっていた。


 譜面台にはバッハとショパンの楽譜が重ねておいてあった。今朝、弾いた時のままの状態で楽譜は置いてあった。彼らに指摘されるまでもなく一応練習は毎日している。


 課題曲は指定された数曲の中から二曲を選ぶのだが、僕はヨハン・ゼバスティアン・バッハの 前奏曲 ハ長調とショパンのエチュード10-4を弾くつもりだ。


 最初にバッハの楽譜を広げ僕は指慣らしも兼ねてゆっくりと弾いた。

しかし中盤からはいつものペースで弾き始めていた。やはり指が動き出すと慣れ親しんだ弾き方になる。

この二曲は今まで散々弾いてきた曲だ。身体が覚えている曲だ。


 バッハを弾き終わるとその流れのまま楽譜も代えずにショパンのエチュードを弾いた。

この二曲とも楽譜を見なくても弾けるのでこのまま流れを切らずに弾きたかった。実際コンクールは暗譜で弾かねばならない。


 僕の中ではこの二曲の対比は結構気に入っていた。

できればコンクールの初っ端にこの二曲を弾きたいとさえ思っていた。しかしこの組み合わせはあまりにも有名過ぎて同じような組み合わせて弾く演奏者も多いだろ。目新しさは全くない。だからできれば一番最初に弾きたいと思っていた。


ショパンを弾くには左手が重要とはよく言われるが、この曲は右手も忙しい。

伊能先生にこれを教わっている時の情景が浮かんだ。あまり細かい事を言わない先生だったが、基本的な事にはうるさかった。

『もっと脱力して……そこはもっと手首を柔らかく』

『ここの八分音符の刻みはもっと正確にね。流されないようにちゃんと意識してね』


 懐かしい想い出が曲の疾走感と相まってどんどん湧き上がってくる。

二分程度の曲だが弾き切った後の達成感は大きい曲だった。


その時にふと誰かに見られている感じがして僕は視線を上げた。

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