第26話 帰り道

 シゲルと別れてから僕は鯉川筋をぶらぶらと歩いて帰った。

太陽は須磨の山に沈み、街は夜の顔になっりつつあった。飲み屋の看板がそろそろ自己主張を始めようかと手ぐすねを引いて待っていた。


 ゆっくりと空気を吸うと夜の香りがする。さっき絶滅危惧種に出会った道は避けようかとも思ったが、ここは僕の地元だ。コソコソ歩きたくないと思いワザワザその道を通った。

絶滅危惧種はやはりもういなかった。そこにだらしなく寝転がっていた形跡さえなかった。


 僕は少し緊張しながらそこを歩いたが、新たな絶滅危惧種はもう登場しなかった。


 この時期になると日が暮れるのも早い。もう夏ではない。

このまま帰らずに安藤さんの店にでも寄りたかったが、流石に学生服姿ではマズイだろうと思い直した。


 あの店にこの姿じゃなぁ……リバプール辺りのパブリックスクールの学生だったら、あの古きイングランとのパブを模した店には似合うんだろうけど……この制服ではなぁ。


 その内に僕は歩きながらシゲルの言葉を反芻して思い出していた。


――ああ、学費稼いでんねん。大学行く資金も貯めなあかんしな。なんせうちは先祖代々由緒正しい貧乏人やからな――


 うちも由緒正しい母子家庭だが、そんな心配はした事ない。それにオヤジはちゃんと毎月僕の養育費を振り込んでくれている。オヤジと会うまでは通帳に記載された入金履歴だけがオヤジとの繋がりを感じられる唯一のものだった。


 今まで僕はお金の心配をした事はない。シゲルから見たら恵まれた家庭なんだろう。大学にしても『行けるところに行ったらええわ』程度にしか考えていない。多分うちの経済状況からは国公立でも私学でも行きたいと言ったら行かせてもらえるだろう。

 そもそも将来何がしたいのかなんて考えたこともなかった。


――やっぱり俺はアマちゃんだな――


 シゲルの話を聞いてちょっと自己嫌悪に陥っているようだ。

無性にオヤジに相談したくなった。いや、相談でなくても良い。シゲルの話を誰かにしたくなった。そして自分の甘さを指摘してもらいたくなった。


 中山手通を超えると鯉川筋の勾配は一気にきつくなる。そこを歩くとこの時期でも軽く汗をかく。


 再びこのまま安藤さんの店に行こうかと迷った。そこに行けばオヤジが居るかもしれない。いなくても安藤さんと話ができるかもしれない……僕はそう思いながら歩いていた。


 しかし結局、僕はシゲルと別れてからまっすぐに家に帰った。

歩いている時に空腹であることに気が付いた。育ち盛りの僕は空腹に勝てなかった。



  オフクロは既に家に帰って来ていて夕食の支度をしていた。家の中は暖かい。

料理の匂いが僕の五臓六腑を刺激する……と言っても主に刺激されたのは胃袋だけだったが……。


「ただいま」

そう言ってリビングに入るとキッチンから

「お帰り」

とオフクロの声が聞こえた。


 僕は学生服の上着をソファの背もたれに無造作に掛けると、リビングを出て洗濯機の横のかごにワイシャツと靴下を放り込んでから自分の部屋に行った。

 そしてジャージに着替えリビングにまた戻った。冷蔵庫から氷を取り出しグラスに入れてコーラを注いだ。

 コーラを飲む時は絶対にグラスに氷が無いと嫌だ。間違いなく氷がある方が美味しい。ただこれを理解してくれる人はあまりいない。唯一オヤジだけはこれを理解してくれていた。

僕は一気にコーラを飲んだ。やはり美味い。



 僕は夕食が出来るまでテーブルに夕刊を広げて読んでいた。

 

 一面をさらっと流して三面記事開いた。

映画の撮影で使用した原寸大の戦艦大和が見物できるというニュースが載っていた。

オヤジなら喜んで行きそうだなと思いながら記事を読んでいたら携帯が震えた。メールが届いたようだ。


 見るとオヤジからだった。

『飯食ったか?』

と書いてあった。


『まだ。今から』

僕はそう書いて返信した。


暫くしてまた携帯が震えた。

『食い終わったら安ちゃんの店に来るか?』

と書いてあった。


『行く』

とだけ書いて送った。

今度はすぐに

『了解』

と返事が来た。


 本当に僕のオヤジは絶妙のタイミングでメールを寄越すなと感心した。

流石は我が父親だと思いたくなった。


 食事が済んだ後、オフクロに今からオヤジに会いに行ってくると言おうかどうか迷ったが、ただ単に「安藤さんの店に行ってくる」とだけ言って出かけた。


 なんだか言えなかった。

オフクロは

「あまり遅くならないように帰ってくるのよ」

とだけ言った。

それを背中で聞いて僕は安藤さんの店に向かった。


 食後の散歩がてらに歩くのにはちょうどいい距離かもしれない。

安藤さんの店に着くまでオヤジにどうやって今日の話を語ろうか考えていたが、どう話してもうまく伝わるような気がしない。


 どうあがいても同級生の話を聞いて敗北感を感じたのを、愚痴っているようにしか見えないだろうなぁと感じていた。

それでもいい。この悶々とした気持ちを誰かにぶつけたくなった。


 安藤さんの店の前に着くと、建物を見上げて

「よし!」

と両手でほほを叩いて、僕は店の扉を押して中に入った。


いつものように鳴る不躾なカウベルの音が、今日は少し耳障りだった。


 オヤジはカウンターで一人飲んでいた。

店内のお客さんはいつものごとくオヤジ一人だった。


 カウンターを挟んで飲むオヤジと煙草を燻らせる安藤さん。その情景はセピア色の写真のように見えて、切り取っておきたくような大人の雰囲気が漂っていた。


「お、早かったなぁ」

オヤジは笑いながら僕の顔を見た。


「うん。あ、安藤さんこんばんはです」

そう言って僕はオヤジの隣の席に腰を下ろした。


「ほい、亮平。珈琲にする? コーラにする?」


「ジンジャエールでお願いします」


「やっぱり親子やな。息子もひねくれとる」

安藤さんは笑いながらグラスに氷を入れると、そこへウィルキンソンをそっと注ぎ込んだ。

オヤジはこのやりとりを笑いながら黙って見ていた。


 オヤジはすでにビールではなくオンザロックでスコッチを飲んでいた。

カウンターにはオヤジが注文したスコッチのボトルが誇らしげに突っ立ていた。

どうやらビールの時間はとっくの昔に終わっていたようだ。


「どうや、学校は? 楽しいか?」

そう言うとオヤジはグラスを持ち上げて酒を飲んだ。


「まあまあかな」


「新しい友達も出来たやろ?」


――もう入学して半年も経つんだから友達ぐらいはできるだろう――

そう言う事は夏前位までにお願いしたい。

そんな事を思いながらも

「うん」

と素直に返事をする僕。


僕はオヤジとカウンターで並んで話をするのが、この頃好きになったかもしれない。

まだ少し緊張するけど。




「なぁ、父さんって子供の頃、喧嘩強かったん?」

僕は思い切って聞いてみた。


「なんやぁ? 急に……」

オヤジは意外そうな表情をして聞き返してきた。


「いや、どうやったんかなって思ったから……」

どう話を切り出していいか、決めかねている僕は煮え切らない返事しかできない。


「弱くはなかったと思うけどなぁ……」

とオヤジはそう言って救いを求めるように安藤さんの方を見た。


 それを受けて安藤さんが代わりの答えてくれた。

「そうやなぁ。一平はそんなに喧嘩をしているところは見たことないけど……したら強かったな。負けたことあったけ?」


「俺は勝てない奴とはしない主義やからな」

とオヤジは笑って言った。


「まあ、亮平のお父さんはそこそこ喧嘩が強かったと言っておこう」

安藤さんはカウンターの向こうでタバコをふかしながらそう言った。


「そうそう、喧嘩の事なら安ちゃんに聞け。進学校の生徒のくせに案外ゴンタやったからな。バトル枠の事はコイツの方が専門や」


「誰が専門や! 専門ちゃうわ」

と安藤さんはあきれ顔で応えた。


「うん。安藤さんは昔からゴンタやったって気がしますよね」

僕もオヤジと同じように思っていたので思わずそう言った。


「まあ、大人しくはなかったけどな。ゴンタなら一平も同じやで。こいつも何かとうるさかったからな。ブイブイ言わしとったからな」


「やめれ、息子の前で過去の恥ずかしい黒歴史の話をするな」

オヤジは結構嫌がっていた。

僕は聞きたかったが安藤さんも笑いながら話をそれ以上続けることはなかった。



「どうしたんや? だれかと喧嘩でもしたんか?」

オヤジが話題を変えるように聞いてきた。


「うん。まぁ」

と僕は生返事を返した。僕はまだ迷っている。


「なんや宏美ちゃんと喧嘩したんか?」

とオヤジは面白そうに聞いてきた。

「ちゃうわ」

と僕が否定すると今度は

「じゃあ、冴子か?」

とオヤジは楽しそうに聞いてきた。


「だから、そこから離れろ! 全然ちゃうから」

とうんざりしながらオヤジに言うと


「今日、元町でヤンキーの兄ちゃんに絡まれた」

とだけ答えた。もう考えるのは止めた。そのまんま直球勝負に出た。


「へぇ。まだそんなん存在していたんや」

オヤジと安藤さんが同時に驚いたように声をあげた。


「で、カツアゲでもされたんか?」

安藤さんが聞いてきた。


「ううん。される前に昔の友達が助けてくれた。六人相手に一人で行って蹴散らしよった」


「六人もおったんかいな! 一人で六人って……それは凄いな」

安藤さんは驚いたように感心していた。

オヤジも同じように感心していた。


「なんや? お前は六人がかりでカツアゲされかけていたんかぁ?」

とオヤジは明らかにあきれ顔で聞いてきた。


――俺が悪い訳ではない。それよりも少しは心配せんかい!――

と僕は思ったが

「いや、最初、一人や思って蹴り倒したんやけど、後から五人出てきた」

そんな事はおくびにも出さずに答えた。


「なるほどな。よくある手やな。一匹見つけたら十匹いると思えって言うしな」

とオヤジと安藤さんは懐かしそうに頷きあっていた。


「それって母さんも同じこと言うとったで」

と僕が突っ込むと慌てたようにオヤジが上ずった声で

「でも一人で倒すってなかなか根性あるやん。大抵の奴はいかついのが出てきたらビビるやろうに……」

と言った。オフクロの口癖はオヤジの置き土産だったかもしれない。


「逃げるの嫌やから……」

と僕が応えると

それを聞いて安藤さんがオヤジの顔を覗き込むようにして

「逃げるの嫌いやて……誰かさんの口癖やったなぁ」

と言った。


「さぁ……?」

オヤジは歯切れが悪い返事をしていた。


「その時は友達も一緒におったん?」

安藤さんはまた聞いてきた。どうやらこういう話は安藤さんは好きみたいだ。


「いえ。後の五人に囲まれている時に通りすがりで出てきたんです」


「おお、『正義のヒーロー現る』って奴やな」

安藤さんは感動したように言った。本当に興味津々なのが手に取るように伝わってくる。


「はい。まさにその通りでした。あっという間に残りの五人をやっつけてくれました」

正確には、最初のゴキブ……いや絶滅危惧種はシゲルに再度蹴られていたから六人でも正解だったかもしれない。でも僕も少しぐらい『頑張ったぞ』って主張したい。


「ほ~凄いなぁ……その友達って中学校時代の友達か?」

安藤さんは感心したように頷くと更に矢継ぎ早に聞いてきた。

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