第256話 クリスマスイヴ


「ま、早いうちに宏美にちゃんと謝っとけよ。正直に『うさぎちゃんは寂しいと死んじゃうんです』って言うんやで」


「誰がうさぎちゃんやねん。アホか」


「ふん。まあ、ええわ。やっといつもの顔に戻ったわ」

とシゲルは笑った。


「え? そんなに落ち込んで見えたんかぁ?」


「ああ、顔に死相が出てたで」


「嘘つけ」


「ホンマや。落ち込んでいるのはすぐに判ったわ。その理由がホンマにくだらな過ぎて、聞いてる俺の方が落ち込みそうになったけどな」


「悪かったな」


「それにしても世界的に有名な指揮者から誘われて悩むのは理解できるけど、その理由が『彼女からとっととフランスへ行け』と言われて落ち込むって……お前さぁ、何か悩むところを間違ってないか?」

とシゲルが本当に呆れた様な顔をして聞いてきた。


――返す言葉が見つからん――


僕が無言で俯くと

「ホンマ、天才の考える事は常人では理解できひんわ」

とシゲルは笑った。

その笑顔で僕は救われた様な気がしたが、何か引っかかる物言いだ。


――誰が天才やねん。ちゃうわ――


「それって褒めてないよな?」

と上目遣いでシゲルに聞き返した。


「何か褒められるような事でもしましたっけ?」

とシゲルは冷ややかな視線を僕に向けながら言った。


「いえ……別に」

と僕は再び黙るしかなかった。


「まあ、ええんやないの? なんかスッキリしたみたいやし」

とシゲルはまた笑って言った。

本当にこいつの笑顔は人の心をほっとさせる何かを持っていると思う。少なくとも僕にとってはそうだ。たまに腹の立つひとことが付いてくるけど。


「うん。それは言えている」

確かに今は嘘のようにすっきりとしていた。


「ほな、早よ、宏美に連絡したれ」


「え?」


「早よ、帰れって言うとんのや。鈍い奴っちゃなぁ」


「お前は?」


「俺はここのマスターとだべってから帰るわ」


「そっかぁ。悪いな。じゃあ、これな」

と僕はポケットから二人分の珈琲代を払おうとした。

「要らん、要らん」


「なんで? 俺が呼んだのに」


「ここはお前のコンクールのお祝いで払うとくわ」


「ええんか?」


「勤労少年を舐めるな。大丈夫や」


「ほな、ご馳走になるわ。じゃあな」

と僕はシゲルに珈琲を奢ってもらって店を後にした。


店を出た瞬間にもう携帯電話を取り出して宏美に電話を架けていた。



 直ぐに宏美が出た。

「どうしたん?」


「いや、あのさ、今日な……なんか冷たい態度してごめんな」

と僕は言い訳もせずに謝った。


「ううん。私もゴメン」

やはり宏美は僕の態度に気が付いていたようだ。


「なんでお前が謝るん?」


「だって、亮ちゃんが私に言う前に先に言ってしまって、気分を悪くしたんやと思ったから。ホンマに僭越やね。亮ちゃんがまだどうするかも決めてないのに私が先に余計な事言うてもうたから……ホンマにゴメン……」

そう言うと宏美の声が詰まった。


 僕はここで初めて自分が何に対して腹を立てて憤っていたのかを理解した。


――そうやったんや。自分の言葉で何かを語る前に、頭ごなしに言われたような気がしてたんや――


なんてくだらない理由で僕は腹を立てていたんだろう。冷静な宏美のひとことを聞いて僕は宏美が大人に見えて、何故だか知らないが取り残されたような寂しさを感じていた。


 僕がイラつきの理由に気が付く前に宏美はとっくに気が付いていたようだ。

僕は宏美の態度と言葉から置いてけぼりを喰らったような不安な、そして取り残された者特有の焦りを感じていた。

それがまるで理解できずにいて、訳の分からない焦燥感を怒りとして宏美にぶつけていただけだった。


今、それをすべて理解した。


 僕のそんな八つ当たりのような感情をまともに受けた宏美は一人不安になっていた。

そして持って行き場のない重圧で潰されそうになっていた。宏美の声からその感情が溢れるように伝わってきた。


 本当に僕はダメだな。子供過ぎる。自己嫌悪が再び僕に訪れてきた。また宏美を泣かしてしまった。


「謝らんでええ。謝るのは俺の方や。留学の話はもっと色々考えてから返事するつもりや。結論が出たら一番に宏美に報告するから」

と僕は言った。


「……うん」


「鼻詰まってんで。花粉症か?」


「ちゃうわ。アホ」


「はは、ゴメン」


「めっちゃ心配しててんから……このまま、もう口も利いてくれへん様になったらどうしようとか色んな事想像しててんから……」


「うん……」

僕は電話口で宏美が怒っている姿を想像しながら鯉川筋を歩いていた。今すぐに会いたい。


「今、どこにおるん?」

宏美が聞いてきた。


「今か? 鯉川筋を歩いてる」


「一人?」


「うん。今から家に帰るところや」


「どっか行ってたん?」


「うん。シゲルとお茶してた」


「あ、そうなんや。シゲル君元気にしとった?」

宏美は意外そうな声で聞いてきた。


「ああ、元気やで。あいつはいつも元気やからな」

 僕は宏美の事をシゲルに相談したという事は言わなかった。電話でする話でもないし、するなら宏美に会ってしたかった。


「そうやね……あのね、亮ちゃん……」


「ん? どうしたん?」


「うん。今日ね、クリスマスイヴやって知っとった?」


「え? あ! そうかぁ……今日の演奏会の事ばっかり考えていて完全に抜けとったわ」


「そうやろうと思ったわ」

と宏美は笑った。


「はぁ、ごめんね」

本当に僕は抜けている。さっきから謝ってばかりいる。


「ううん。全然かまへんねん。私もそうやったから……ねえ、今から私の家に来る?」


「え?」


「実はね、お店からケーキを貰って来てん」

 宏美は父親の店からケーキを持って帰って来ていた。コンサートが終わった後は、僕と一緒にクリスマスイヴを過ごそうと思っていたのだろう。でもそれを今この瞬間まで僕に言えずにいた。自己嫌悪がまた一つ増えた。


「ホンマに?」


「うん。ホンマ。でもショートケーキやけどね。その代り、亮ちゃんの好きなチーズケーキとイチゴのショートケーキはあるよ」


「全然。充分や。今からすぐに行くわ」


「うん。待っとうから」


「じゃあ、今から急いで行くわ」

そう言って僕は電話を切った。


 さっきまでの鬱々とした気分はもうどっかに飛んで行ってしまっていた。

しかし自分の子供の部分を目一杯自覚させられて、この自己嫌悪は暫く続きそうだ。

こんなガキンチョな僕に、愛想を尽かす事もなく待ってくれていた宏美に感謝したい気分だった。

本当にシゲルに話をして良かった。宏美に電話を架けて良かった。


 僕は鯉川筋をさっきまでとは打って変わって、軽い足取りで登って行った。

師走の風も何故か心地よかった。


――そうだ、今日はクリスマスイヴなんや――


僕は宏美からとても大きなプレゼントを貰ったかもしれない。そんな気がした。

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